島根県の歴史上の人物の御墓

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【 人物名:京極高次 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:安国寺 】
埋葬者 ・京極高次
名 称 ・安国寺
所在地 ・島根県松江市竹矢町
法 名 ・泰雲寺殿前三品相公徹宗道閑大居士
没 年 ・慶長14年=1609年
年 齢 ・47歳
備 考
歴 史
略 歴
・京極高次は京極高吉と浅井久政の娘の子供として生まれました。京極家は近江守護を担った家柄でしたが、戦国時代は浅井家の庇護下に置かれ事実上没落、高次は浅井三姉妹の初を正室として迎え、諸侯として再興を果たしています。関ヶ原の戦いでは大津城で西軍1万を引き付ける大功を挙げ、9万2千石で小浜藩を立藩しています。
京極高次:墓碑(お墓)の画像
【 人物名:松江松平家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:月照寺 】
埋葬者 ・松江松平家
名 称 ・月照寺
所在地 ・島根県松江市外中原町
備 考 ・祖である松平直政は徳川家康の次男結城秀康の三男として生まれ、大坂の陣の功績により諸侯に列し、その後、大野藩、松本藩を経て寛永15年に18万6千石で出雲松江藩へ入封しています。以後、明治維新まで松平家が藩主を歴任しています。月照寺は直政が母親である月照院の供養の為に中興した寺院ですが、直政が死去すると遺言により菩提寺として整備されています。境内には歴代藩主の霊廟が建立されており国指定史跡に指定されています。
松江松平家:墓碑(お墓)
【 人物名:堀尾吉晴 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:巌倉寺 】
埋葬者 ・堀尾吉晴
名 称 巌倉寺
所在地 ・島根県安来市広瀬町富田
法 名 ・法雲院殿前楓松庭世栢大居士
没 年 ・慶長16年=1611年
年 齢 ・69歳
備 考
歴 史
略 歴
・堀尾吉晴は尾張国丹羽郡御供所村を本貫とする土豪として生まれましたが、主家である織田信安の没落と共に浪人となり後に織田信長に仕えています。織田家では羽柴秀吉の付属され各地に転戦し実績を挙げています。豊臣政権下では三中老に数えられましたが、秀吉が死没すると豊臣家を見限り徳川家に与しています。
堀尾吉晴:墓碑(お墓)
【 人物名:山中鹿介幸盛 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:巌倉寺 】
埋葬者 ・山中鹿介幸盛
名 称 ・巌倉寺
所在地 ・島根県安来市広瀬町富田
法 名 ・幸盛院殿鹿山中的大居士など
没 年 ・天正6年=1578年
年 齢 ・34歳又は39歳
備 考
歴 史
略 歴
・山中鹿介幸盛は戦国大名として山陰地方を支配した尼子氏の重臣で尼子三傑の1人に数えられました。尼子氏が毛利元就に敗れ没落後は御家再興の為、何度も挙兵を挙げ最後まで諦めなかった事から忠臣として後世まで語り継がれました。当地の墓碑は慶長7年に堀尾吉晴の御内儀が建立されたものとされます。
山中鹿介幸盛:墓碑(お墓)
【 人物名:益田宗兼 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:医光寺 】
埋葬者 ・益田宗兼
名 称 ・医光寺
所在地 ・島根県益田市染羽町
法 名 ・医光寺殿全久宗兼
没 年 ・天文13年=1544年
備 考
歴 史
略 歴
・益田宗兼は益田貞兼と吉見三河守の娘との子供として生まれ、文明15年に家督を継ぎ益田家17代当主に就任しています。大内義興に従い各地に従軍し国人領主としての地位を確立しています。永正15年には菩提寺となる医光寺を再興して境内を整備しています。
・墓石の形状・種類:和型墓石
益田宗兼:墓碑(お墓)

【 人物名:雪舟 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大喜庵 】
埋葬者 ・雪舟
名 称 ・大喜庵(墓・廟)
所在地 ・島根県益田市乙吉町
没 年 ・永正3年=1506年
年 齢 ・86歳
備 考
歴 史
略 歴
・大喜庵は旧東光寺が境内を構えていた地で、雪舟はここを拠点として文亀2年から永正3年に死去するまで創作活動を続けました。大喜庵に残されている墓は宝暦年間に佐渡の浄念の発願で乙吉村庄屋金山太右衛門が大旦那として、改築したもので、旧墓の相輪部が納められています。
・墓石の形状・種類:石廟
雪舟(墓・廟):墓碑(お墓)
【 人物名:雪舟 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大喜庵 】
埋葬者 ・雪舟
名 称 ・大喜庵(追褒塔)
所在地 ・島根県益田市乙吉町
法 名
没 年 ・永正3年=1506年
年 齢 ・86歳
備 考
歴 史
略 歴
・追褒塔は雪舟没後500年の追悼行事として平成17年に雪舟顕彰会が建立したもので、雪舟の旧墓碑と欠けた部分を復元しています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
雪舟(追褒塔):墓碑(お墓)
【 人物名:雪舟 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:医光寺 】
埋葬者 ・雪舟
名 称 ・医光寺(灰塚)
所在地 ・島根県益田市染羽町
法 名
没 年 ・永正3年=1506年
年 齢 ・86歳
備 考
歴 史
略 歴
・医光寺の庭園は雪舟が作庭したと伝えられています。雪舟が死去すると境内で火葬されたとされ、跡地には灰塚が建立されています。
・墓石の形状・種類:自然石
雪舟:墓碑(お墓)
【 人物名:多根兼政 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大喜庵 】
埋葬者 ・多根兼政
名 称 ・大喜庵
所在地 ・島根県益田市乙吉町
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・多根兼政は益田家5代当主益田兼季の5男として生まれ、多根氏の初代となっています。兼政は本家に従い弘安3年には6代当主である益田兼時の命により益田川の修復、弘安4年には蒙古襲来に備えて防塁築造に尽力しています。領内には菩提寺となる東光寺を創建、後継寺院である大喜庵には墓碑が建立されています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
多根兼政:墓碑(お墓)
【 人物名:益田兼堯 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大雄庵跡 】
埋葬者 ・益田兼堯
名 称 ・大雄庵跡
所在地 ・島根県益田市七尾町桜谷
法 名 ・大雄院全国瑞兼
没 年 ・文明17年=1485年
備 考 ・益田兼堯は益田兼理の子供として生まれ、永享3年に兼理が討死した事で家督を継ぎ益田家15代当主に就任しています。大内氏に従う一方で、室町幕府とも直接関係を結び、領土の安堵を確約、幕府、大内氏の命により各地で転戦し地位を確立しています。隠居すると七尾城の尾崎丸の山麓に境内を構えている大雄庵で過ごす事が多くなり、雪舟を招くなど文化の発展にも尽力しています。
益田兼堯:墓碑(お墓)

【 人物名:亀井家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:永太院 】
埋葬者 ・亀井家
名 称 ・永太院
所在地 ・島根県鹿足郡津和野町後田
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・亀井茲矩之以前の亀井家は系譜等が少なく不明な部分が多い氏族です。矩之の跡を継いだ亀井政矩は鹿野藩2代藩主に就任し、元和3年に津和野藩に移封となり、以降、津和野藩は亀井氏が歴任しています。亀井氏の墓域は菩提寺である永明寺の末寺 永太院の境内にあり国指定史跡に指定されています。
・墓石の形状・種類:大名墓
亀井家:墓碑(お墓)
【 人物名:亀井茲矩之 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:永太院 】
埋葬者 ・亀井茲矩之
名 称 ・永太院
所在地 ・島根県鹿足郡津和野町後田
法 名 ・中山道月大居士
没 年 ・慶長17年=1612年
年 齢 ・57歳
備 考
歴 史
略 歴
・藩祖である亀井茲矩之の正式な墓は鳥取県鳥取市鹿野町寺内にありますが、永太院の亀井家墓所の一角にも設けられています。自然石の小規模なもので、他の墓に比べても簡素なものです。
・墓石の形状・種類:自然石
亀井茲矩之:墓碑(お墓)
【 人物名:坂崎直盛 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:永明寺 】
埋葬者 ・坂崎直盛
名 称 ・永明寺
所在地 ・島根県鹿足郡津和野町後田ロ
法 名 ・正法寺殿一峯玄秀大居士
没 年 ・元和2年=1616年
備 考
歴 史
略 歴
・坂崎直盛は宇喜多忠家の子供で、家督継承後は従弟で五大老だった宇喜多秀家に仕えました。一族衆として所領2万4千石が安堵されていましたが、次第に対立が顕著になり関ヶ原合戦では東軍に与し浜田藩2万石が与えられています。その後、3万石で津和野藩に移封となり、千姫を巡るトラブルにより自刃、改易となっています。
・墓石の形状・種類:大名墓
坂崎直盛:墓碑(お墓)
【 人物名:森鴎外 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:永明寺 】
埋葬者 ・森鴎外
名 称 ・永明寺
所在地 ・島根県鹿足郡津和野町後田ロ
法 名 ・貞献院殿文穆思斎大居士
没 年 ・大正11年=1922年
年 齢 ・60歳
備 考
歴 史
略 歴
・森鴎外は明治時代から大正時代にかけての小説家、評論家、陸軍軍医で、津和野藩の藩医の子供として生まれました。遺言「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」に従い墓碑には「森林太郎」と刻まれています。
・墓石の形状・種類:和型墓石
森鴎外:墓碑(お墓)
【 人物名:大宮姫 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:光明寺 】
埋葬者 ・大宮姫(吉見正頼の正室)
名 称 ・光明寺
所在地 ・島根県鹿足郡津和野町後田
法 名 ・栄誉信盛
没 年 ・天正5年=1577年
備 考 ・大宮姫は大内義興の3女として生まれ、当初は津和野城の城主である吉見隆頼に嫁ぎましたが、隆頼は天文9年に死去した為、隆頼の弟で家督を継いだ吉見正頼と再婚しています。正頼は義弟である大内義隆が陶晴賢に討たれると、毛利家に転じ陶晴賢への弔い合戦を完遂しています。光明寺は大宮姫が創建したと伝わる寺院で、境内には大宮姫のものと伝わる墓碑が建立されています。
大宮姫(吉見正頼の正室):墓碑(お墓)

【 人物名:竹村丹後守道清 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:勝源寺 】
埋葬者 ・竹村丹後守道清
名 称 ・勝源寺
所在地 ・島根県大田市大森町
法 名 ・崇泰院勝誉道清居士
没 年 ・寛永12年=1635年
年 齢 ・75歳
備 考
歴 史
略 歴
竹村道清は永禄4年(1561)、大和国竹内村を本貫とする竹村与吉兵衛の長男として生まれています。元亀元年(1570)、細井戸城が松永方の箸尾氏に攻められ落城した際に与吉兵衛が討死した為、まだ幼少だった事から徳川家康の命もあり、弟の竹村嘉理と隔年で織田信長の安土城に人質として赴いています。
竹村丹後守道清:墓碑(お墓)
【 人物名:阿久澤修理義守 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:妙蓮寺 】
埋葬者 ・阿久澤修理義守
名 称 ・妙蓮寺
所在地 ・島根県大田市大森町
法 名
没 年 ・文政4年=1821年
年 齢
備 考 ・阿久澤義守は第45代大森代官で、文化11年(1814)から文政4年(1821)の間、石見銀山に赴任しています。代官就任前の寛政12年(1800)に大森大火が発生し大きな被害となっており、文化12年(1815)義守によって代官所の長屋門が再建されています。

文化振興にも尽力し文政3年(1820)に毛利元就250回忌の際には元就所縁の長安寺(現在の豊栄神社)に対し銀3枚を寄進しています。勝源寺の境内にある東照宮には歴代徳川家の位牌を安置し徳川家に忠誠の意を示しています。

阿久澤義守の墓は妙蓮寺の境内にあり高さ97cm、幅37cm、貴重な事から島根県指定史跡に指定されています。

・墓石の形状:宝篋印塔
阿久澤修理義守
【 人物名:大久保石見守長安 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大安寺跡 】
埋葬者 ・大久保石見守長安
名 称 ・大安寺跡
所在地 ・島根県大田市大森町
没 年 ・慶長18年=1613年
年 齢 ・69歳
備 考 ・大久保長安は武田信玄の御抱え猿楽師だった信安の子供として生まれましたが、早くから才能を見出され武田家家臣として土屋昌続に仕えました。武田家没落後は徳川家の家臣となり大久保忠隣の与力に任じられた事から大久保姓を掲げました。慶長6年に石見銀山奉行に就任、菩提寺となる大安寺を創建し「逆修墓」が設けられています。
大久保石見守長安:墓碑(お墓)
【 人物名:尼子興久 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:月山富田城跡 】
埋葬者 ・尼子興久
名 称 ・月山富田城
所在地 ・島根県安来市広瀬町富田
法 名 ・天心院殿一元法刃大禅定門
没 年 ・天文3年=1534年
年 齢 ・37歳
備 考
歴 史
略 歴
・尼子興久は尼子経久の三男として生まれました。大内義興に従い信任を得た事から「義興」の「興」の字を賜り彦四郎から「興久」に改名しています。その後、塩冶家の名跡を継ぎ日御碕神社の保護をはじめ、一族でありながら反尼子勢力の中心的な存在となります。享録3年頃から反乱を起こし天文3年に自刃に追い込まれています。
尼子興久:墓碑(お墓)

【 人物名:尼子晴久 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:月山富田城跡 】
埋葬者 ・尼子晴久
名 称 ・月山富田城
所在地 ・島根県安来市広瀬町富田
法 名 ・月光院殿愚溪宗見大居士など
没 年 ・永禄3年=1561年
年 齢 ・47歳
備 考
歴 史
略 歴
・尼子晴久は尼子経久の嫡男・政久の次男として生まれました。政久と長男が尼子家の家督を継ぐ前に死去した為、繰り上がって家督を継承しています。晴久は猛将として知られ、石見国・因幡国・播磨国まで版図を広げています。永禄5年に月山富田城の城内で急死すると、密葬され密かに埋葬されたと伝えられています。
尼子晴久:墓碑(お墓)
【 人物名:尼子清定 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:洞光寺 】
埋葬者 ・尼子清定
名 称 ・洞光寺
所在地 ・島根県安来市広瀬町広瀬
法 名 ・右:洞光寺殿華山常金大居士
没 年 ・長享元年=1488年
年 齢 ・78歳
備 考
歴 史
略 歴
・尼子清定は尼子持久の子供として生まれています。応仁元年頃に家督を継ぎ、出雲国守護代として守護だった京極家をよく助け松田氏や三沢氏等の国人領主の反乱を鎮圧し、山名氏の出雲国侵入を押える功績を挙げています。能義郡奉行職や美保関代官職などの要職も担い勢力拡大に努めました。・墓石の形状:宝篋印塔
尼子清定:墓碑(お墓)
【 人物名:尼子経久 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:洞光寺 】
埋葬者 ・尼子経久
名 称 ・洞光寺
所在地 ・島根県安来市広瀬町広瀬
法 名 ・左:興国院殿月叟省心大居士
没 年 ・天文10年=1541年
年 齢 ・84歳
備 考
歴 史
略 歴
・尼子経久は尼子清定の嫡男として生まれました。幼少期は守護職京極家への人質として京を過ごし文明10年に家督を継いでいます。京極家との対立から一時守護代の職を解かれましたが、その後復権し拡大路線を強力に推進しています。進出した国の数から「十一ヶ国太守」の異名があります。・墓石の形状:宝篋印塔
尼子経久:墓碑(お墓)
【 人物名:堀尾勘解由 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:月山富田城跡 】
埋葬者 ・堀尾勘解由
名 称 ・月山富田城
所在地 ・島根県安来市広瀬町富田
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・石廟の中に安置されている宝篋印塔は慶長13年(1608)に制作されたもので、通称「親子観音」と呼ばれています。伝承によると松江藩の御家騒動で処刑された堀尾河内守と子共である堀尾掃部の墓と伝えられていましたが、基礎部分に刻まれた戒名などから堀尾勘解由の墓碑であると推定されています。
・墓石の形状・種類:石廟+宝篋印塔
堀尾勘解由:墓碑(お墓)

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