栃木県の歴史上の人物の御墓

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【 人物名:足利義康・足利義国 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:鑁阿寺 】
埋葬者 ・足利義康・足利義国
名 称 鑁阿寺御霊屋)・鑁阿寺の画像と案内図
所在地 ・栃木県足利市家富町
法 名 ・義康:鑁阿
法 名 ・義国:寶幢寺殿泰山道觀東義大居士
没 年 ・義康:保元2年=1157年
没 年 ・義国:久寿2年=1155年
年 齢 ・義康:31歳
年 齢 ・義国:18歳又は28歳
備 考 ・11代将軍徳川家斉が寄進した御霊屋背後には足利義康と足利義国の墓碑が建立されています。
足利義康・足利義国:墓碑(お墓)
【 人物名:足利長尾家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:長林寺 】
埋葬者 足利長尾家
名 称 長林寺長林寺の画像と案内図
所在地 ・栃木県足利市西宮町
備 考 ・足利長尾家は相模国鎌倉郡長尾郷を本貫として長尾姓を掲げたとされます。長尾景人の代に関東管領上杉房顕に重用され下野国足利庄の代官職として当地に遷りました。その後も上杉家に従い台頭しましたが、関東管領を引き継いだ上杉謙信が病死し、御館の乱が発生すると、関東での上杉家の威光が失われ、小田原北条家の影響を受けるようになります。小田原合戦後、長尾顕長は豊臣方の佐竹義宣に預けられ大名家からは没落しています。・墓石の形状:宝篋印塔、五輪塔
足利長尾:墓碑(お墓)
【 人物名:北条時子 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:法玄寺 】
埋葬者 北条時子
名 称 法玄寺
所在地 ・栃木県足利市巴町
法 名 ・智願院殿
没 年 ・建久7年=1196年
備 考
歴 史
略 歴
・鎌倉幕府初代執権北条時政の娘
足利義兼の正室・北条政子の実妹
・蛭子伝説
・鑁阿寺に設けられた智願寺殿御霊屋は伝説に因み蛭子堂と呼ばれている
・墓石の形状・種類:五輪塔
法玄寺の画像と案内図
北条時子:墓碑(お墓)
【 人物名:小野小町 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:小野小町の墓 】
埋葬者 小野小町
名 称 小野小町の墓
所在地 ・栃木県栃木市岩舟町小野寺
法 名
没 年
年 齢
備 考
歴 史
略 歴
・当地に伝わる伝説によると小野小町は当地で身投げし、それを哀れんだ住民達が墓碑を建立したと伝えられています。
・墓石の形状・種類:自然石
小野小町:墓碑(お墓)
【 人物名:於志賀姫 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:太平寺 】
埋葬者 ・於志賀姫
名 称 太平寺太平寺の画像と案内図
所在地 ・栃木県那須烏山市滝
法 名 ・志徳院殿雅山妙耀大姉
没 年 ・寛政4年=1792年
年 齢 ・49歳
備 考
歴 史
略 歴
・阿六姫は烏山藩主堀親良と側室との間に生まれた姫で、家老である堀新左衛門の長男に嫁いだものの、不義密通の嫌疑を疑われました。姫は事実無根との遺書を残し自害したと伝えられています。この話のモデルになったのは烏山藩2代藩主大久保忠胤の四女・於志賀姫の事とされます。
於志賀姫:墓碑(お墓)

【 人物名:竹垣三右衛門 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:海潮寺 】
埋葬者 ・竹垣三右衛門
名 称 海潮寺
所在地 ・栃木県真岡市田町
没 年 ・文化11年=1814年
年 齢 ・74歳
備 考 ・丹羽長利の三男
・竹垣直照の養子
・名代官とされ、当地には寛政9年に真岡陣屋を設け、同じく設置され上郷陣屋と半月毎に往復し、当地の開発に尽力しました。本墓ではありませんが海潮寺と金村別雷神社に徳政碑が建立されています。お墓の形状:大名墓
海潮寺の画像と案内図
竹垣三右衛門:墓碑(お墓)
【 人物名:鳥居家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:常楽寺 】
埋葬者 ・鳥居家
名 称 常楽寺
所在地 ・栃木県下都賀郡壬生町本丸1丁目
備 考 ・鳥居家は古くから松平家(徳川家)に従った譜代の家臣で、特に鳥居元忠は徳川家康の側近として関ヶ原の戦いで、西軍に囲われる中、伏見城に立て籠もり壮絶な最期を遂げています。その功績から跡を継いだ忠政は山形藩22万石まで加増されましたが、その後は跡継ぎに恵まれず度々断絶の危機を迎えました。しかし、元忠の功績から石高は下げられたものの特例的に家の存続が許され、壬生藩に入封後は8代にわたり藩主を歴任しています。・墓石の形状:五輪塔
鳥居家:墓碑(お墓)
【 人物名:壬生家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:常楽寺 】
埋葬者 ・壬生家
名 称 ・常楽寺
所在地 ・栃木県下都賀郡壬生町本丸1丁目
法 名
没 年
備 考 ・壬生家は小槻胤業が当地に下向した際、地名に因み、壬生姓を掲げたとされます。その後、宇都宮の家臣として台頭し、一時主家を上回る勢いから独立を図り、小田原北条家に与しましたが、小田原合戦で北条家が滅亡すると壬生家も没落しています。
・墓石の形状・種類:霊廟+五輪塔
常楽寺の画像と案内図
壬生家:墓碑(お墓)
【 人物名:二宮尊徳(金次郎) 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:蓮城院 】
埋葬者 ・二宮尊徳(金次郎)
名 称 蓮城院
所在地 ・栃木県真岡市物井
法 名 ・誠明院功誉報徳中正居士
没 年 ・安政3年=1856年
年 齢 ・70歳
備 考
歴 史
略 歴
・蓮城院には桜町陣屋に赴任していた時代に娘である文子が難産で死去し墓碑が建立されていた事から、二宮尊徳が死去すると門人横山平太によって遺髪が文子の墓碑に埋葬されそうです。
・墓石の形状・種類:和型墓石
二宮尊徳(金次郎):墓碑(お墓)
【 人物名:大田原家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:光真寺 】
埋葬者 大田原家
名 称 光真寺
所在地 ・栃木県大田原市山の手2丁目
備 考 ・大田原家は阿保忠清が下野国那須地方の大俵を本貫として大田原姓を掲げたとされ、その後は領主である那須家の家臣として台頭しました。特に大田原資清は有力家臣を排して那須家を凌ぐ影響力がありました。晴清は小田原の役で那須家からの独立を果たし、さらに、関ヶ原合戦で東軍に与した事から1万2千石が安堵され大田原藩を立藩しています。光真寺は大田原家の菩提寺で、境内には歴代当主の墓碑が建立されています。
光真寺の画像と案内図
大田原家:墓碑(お墓)

【 人物名:大関家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大雄寺 】
埋葬者 ・大関家
名 称 大雄寺
所在地 ・栃木県大田原市黒羽田町
備 考 ・大関家は小栗七郎が常陸国小栗御厨庄大関郷を本貫とした事から大関姓を掲げたとも云われています。その後、那須家の家臣として台頭しましたが、同じく家臣だった大田原家に敗れ大田原資清の子供である高増を養子として迎え大関姓の名跡を継がせています。小田原合戦に参戦した事から那須家から独立を果たし、関ヶ原でも東軍として行動した事から2万石が安堵され黒羽藩を立藩し代々藩主を歴任しています。
大雄寺の画像と案内図
大関家:墓碑(お墓)
【 人物名:那須与一 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:玄性寺 】
埋葬者 那須与一
名 称 玄性寺玄性寺の画像と案内図
所在地 ・栃木県大田原市福原
法 名 ・即成院殿禅海宗悟大居士
法 名 ・即成院殿月山洞明大居士
没 年 ・文治5年=1189、又は建久元年=1190年
備 考
歴 史
略 歴
・那須資隆の子供
・那須氏2代目当主
・源平合戦では源義経軍に従軍し「南無八幡大菩薩日光の権現那須の湯泉大明神。願わくはあの扇の真中射させ給え・・」云々で平家が挑発した扇の的を射抜た事で知られています。
那須与一:墓碑(お墓)
【 人物名:福原家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:実相院 】
埋葬者 福原家
名 称 実相院
所在地 ・栃木県大田原市佐久山
法 名
備 考 福原家は那須太郎資孝の4男久隆が下野国塩谷郡福原郷を本貫とし、福原姓を掲げたのが始まりとされます。福原家は本家筋の那須家の重臣として重きを成しましたが、戦国時代に家臣同士の勢力争いに敗れ大田原資清の2男資孝を養子として迎え福原姓の名跡を継がせています。江戸時代には交代寄合として明治維新を迎えています。
・墓石の形状・種類:大名墓
実相院の画像と案内図
福原家:墓碑(お墓)
【 人物名:佐野源左衛門常世 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:願成寺 】
埋葬者 佐野源左衛門常世
名 称 願成寺
所在地 ・栃木県佐野市鉢木町
法 名
備 考 ・鎌倉時代中期の下野国佐野庄の領主
・鎌倉幕府執権だった北条時頼が西明寺入道として諸国を行脚していた際、身を落としていた常世から篤い持て成しを受け、「いざ鎌倉」という時は一早く駆け付けるとの話をし、本当に実行した事から、その褒美として本貫安堵と加増されたとの逸話が残されています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
願成寺の画像と案内図
佐野源左衛門常世:墓碑(お墓)
【 人物名:田中正造 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:惣宗寺 】
埋葬者 ・田中正造
名 称 佐野厄除け大師(惣宗寺)
所在地 ・栃木県佐野市金井上町
法 名 ・竣徳院殿義巌徹玄大居士
没 年 ・大正2年=1913年
年 齢 ・71歳
備 考
歴 史
略 歴
・衆議院議員(立憲改進党・憲政本党)
・自由民権運動に参加
・足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴
・鉱毒反対運動などで全財産を使い果たす
・死去した時は無一文
・墓石の形状・種類:自然石
田中正造:墓

【 人物名:伊王野家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:長源寺 】
埋葬者 ・伊王野家
名 称 長源寺
所在地 ・栃木県那須郡那須町伊王野
備 考 ・那須光資の弟 頼資の次男である次郎資長が家祖で、延応元年に伊王野に伊王野城を築き伊王野姓を掲げたとされます。小田原の役で参陣が遅れた為、735石に減じられましたが、関ヶ原合戦の功により2千石が安堵され大身旗本に復権しています。長源寺は弘治元年に伊王野資直が中興開基した寺院で、資直以降の伊王野氏の菩提寺となっています。境内の一角には伊王野氏の墓碑が建立されています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
伊王野家:墓碑(お墓)
【 人物名:芦野家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:建中寺 】
埋葬者 ・芦野家
名 称 建中寺
所在地 ・栃木県那須郡那須町芦野
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・芦野家は中世、那須家の重臣として那須七騎に数えられました。小田原の役に参陣し本貫が安堵され、関ヶ原合戦の功績により2千7百石(最終は3千石余)で大身交代寄合旗本となっています。建中寺は芦野資俊が元禄5年に死去し境内に葬られた後、歴代芦野家の菩提寺となり、一族の墓碑や供養塔が建立されています。
・墓石の形状・種類:大名墓
芦野家:墓碑(お墓)
【 人物名:宇都宮家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:宇都宮家累代の墓 】
埋葬者 ・宇都宮家
名 称 宇都宮家累代の墓
所在地 ・栃木県芳賀郡益子町上大羽
法 名
備 考
歴 史
略 歴
・宇都宮家は石山寺、又は大谷寺の座主を勤めた藤原宗円が祖とされ、その後、源頼義・義家父子の信任を得て宇都宮二荒山神社の座主となっていいます。建久3年に尾羽寺(後の地蔵院)を自らの菩提寺と創建し隣地には歴代の墓碑が建立されました。その後、宇都宮家は本拠地を宇都宮城に遷しましたが、当地は聖地として保護され墓家老を設けて家臣を常駐させています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
宇都宮家:墓碑(お墓)
【 人物名:足利義兼 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:樺崎八幡宮 】
埋葬者 ・足利義兼
名 称 樺崎八幡宮旧法界寺の画像と案内図
所在地 ・栃木県足利市樺崎町
法 名 ・鑁阿寺殿貞山源嘯義稱上人
没 年 ・正治元年=1199年
年 齢 ・45歳
備 考
歴 史
略 歴
・源(足利)義康の子供
・足利宗家2代当主
・早くから源頼朝に従い功績を挙げた
・東大寺で出家し、「義称」と称した
・下野国足利荘の樺崎寺に隠棲
・樺崎八幡宮本殿は霊廟で床下に墓碑
足利義兼:墓碑(お墓)
【 人物名:徳川家康 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:日光東照宮 】
埋葬者 ・徳川家康
名 称 日光東照宮奥宮
所在地 ・栃木県日光市山内
法 名 ・東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士
没 年 ・元和2年=1616年
年 齢 ・73歳
備 考
歴 史
略 歴
・安祥松平家9代当主
・征夷大将軍
・江戸幕府初代将軍
日光東照宮の画像と案内図
・墓石の形状・種類:廟墓
徳川家康:墓碑(お墓)

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