山形県の歴史上の人物の御墓

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【 人物名・志村光安 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:永泉寺 】
埋葬者 ・志村光安
名 称 ・永泉寺
所在地 ・山形県飽海郡遊佐町直世仲道
法 名
没 年 ・慶長14年又は慶長16年=1611年
備 考
歴 史
略 歴
・志村光安は戦国時代に志村光清の子供として生まれました。最上義光に仕え外交面で実績を挙げ、関ヶ原の戦いでは山形城の最終防衛ラインである長谷堂城に立て籠もり直江兼続の軍を食い止める大功を挙げています。戦後、東禅寺城(亀ヶ崎城)3万石の城主に抜擢されています。
・墓石の形状・種類:石造多層塔
志村光安:墓碑(お墓)
【 人物名・徳尼公 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:泉流寺 】
埋葬者 ・徳尼公
名 称 泉流寺
所在地 ・山形県酒田市中央西町
没 年 ・建保5年=1217年
年 齢 ・87歳
備 考 ・徳尼公は藤原秀衡の後室、又は側室、又は妹とされる人物で、文治5年に発生した奥州合戦の敗北で奥州藤原氏が滅亡すると遺臣三十六騎が徳尼公を護りながら密かに平泉を脱出し出羽国の酒田付近まで落ち延びたと伝えられています。徳尼公は草庵を設けて奥州藤原家の供養を行い、三十六騎は土着し後の酒田三十六人衆の祖になったとされます。・墓石の形状:霊廟
徳尼公:墓碑(お墓)
【 人物名・砂越氏 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:長応寺 】
埋葬者 ・砂越氏(尊親塔)
名 称 ・長応寺
所在地 ・山形県酒田市砂越字楯之内
備 考 ・砂越氏は鎌倉時代初期に奥州合戦の功により出羽国飽海郡代となり、後裔が市条から砂越城に本拠を遷し地名から「砂越」姓を掲げたとされます。その後は周辺を支配する国人領主として成長し、戦国時代には大宝寺氏と対立しました。永正10年に大宝寺氏により滅ぼされると大宝寺氏維が名跡を継いだものの、最上家や本庄家、上杉家により庄内地方が席捲され没落し安東家を頼り秋田に逃れています。
・墓石の形状・種類:大名墓
砂越氏(尊親塔):墓碑(お墓)
【 人物名・松山酒井家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:心光寺 】
埋葬者 ・松山酒井家
名 称 ・心光寺
所在地 ・山形県酒田市字北町
備 考 ・正保4年に庄内藩初代藩主酒井忠勝が死去すると、遺言により三男忠恒に2万石が分知され立藩、寛文2年に中山に陣屋を設け、寛文4年に地名を松山に改め松山藩と呼ばれるようになりました。3代忠休は若年寄など幕府の要職を歴任した事から5千石が加増、さらに城主格となり松山城が築城されています。その後も松山酒井家が藩主を歴任し明治維新を迎えています。心光寺の御霊屋には初代藩主酒井忠恒、二代藩主酒井忠豫、三代藩主酒井忠休が祭られています。
松山酒井家:墓碑(お墓)

【 人物名・小野良実 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:熊野神社 】
埋葬者 ・小野良実
名 称 ・熊野神社
所在地 ・山形県東田川郡庄内町狩川堂ノ下
法 名
備 考 ・小野良実は小野篁の子供で、小野小町の父親とされる人物ですが信頼性のある資料でその名を見る事は出来ません。伝承によると良実は嘉祥3年に出羽郡司に就任すると赴任地である当地に赴き、開発に尽力し小野千軒と呼ばれる程に繁栄したそうです。良実が死去すると屋敷内に塚が築かれ何時しか「小野塚」と呼ばれるようになったと伝えられています。
・墓石の形状・種類:和型墓石
小野良実:墓碑(お墓)
【 人物名・北館大学助利長 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:見龍寺 】
埋葬者 ・北館大学助利長
名 称 ・見龍寺
所在地 ・山形県東田川郡庄内町狩川小野里
法 名 ・大椿院殿山翁良公大居士
没 年 ・寛永2年=1625年
年 齢 ・78歳
備 考
歴 史
略 歴
・北館大学助利長は最上義光の家臣で、関ヶ原の戦いで庄内地方が最上家の領土になると利長には狩川城3千石が与えられています。利長は領内整備に尽力し、特に総延長30`にも及ぶ「北楯大堰」は4千2百町歩、約3万石の新田が開発されました。元和8年に最上家が改易後は酒井忠勝に従っています。・墓石の形状:五輪塔
北館大学助利長:墓碑(お墓)
【 人物名・安保氏 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:乗慶寺 】
埋葬者 ・安保氏
名 称 ・乗慶寺
所在地 ・山形県東田川郡庄内町余目館
法 名
備 考 ・安保氏は武蔵七党の一つ、丹党の一族とされ、出羽安保氏の祖とされる安保肥前守忠実は、室町幕府初代将軍足利尊氏の執事を担った高武蔵守師直に従い正平年間に当地に配されました。後裔は当地に土着し安保氏館を拠点として土豪として勢力を拡大しました。天正3年に安保能形が病死すると大宝寺義氏に攻め込まれ、弟である与次郎が応戦するも討死しています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
安保氏:墓碑(お墓)
【 人物名・酒井家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大督寺 】
埋葬者 ・酒井家
名 称 ・大督寺
所在地 ・山形県鶴岡市家中新町
備 考 ・庄内藩祖である酒井忠勝は酒井家次の長男として生まれ、元和4年に家督を継承すると元和5年に高田藩から松代藩に移封となり、元和8年に庄内藩13万8千石に入封しています。御家騒動である酒井長門守一件や不当な三方領地替えなどの危機がありましたが、明治維新まで酒井家が藩主を歴任しています。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加し主力として参戦、新政府方に転じた新庄藩や久保田藩と交戦しています。
・墓石の形状・種類:大名墓・五輪塔等
酒井家:墓碑(お墓)
【 人物名・加藤忠廣・正応院 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:本住寺 】
埋葬者 ・加藤忠廣・正応院
名 称 ・本住寺
所在地 ・山形県鶴岡市三光町
法 名 ・忠廣:帝光院殿証誠覺日源大居士
・正応院:正應院殿日怡大徳尊霊位
没 年 ・忠廣:承応2年=1653年
・正応院:慶安4年=1651年
年 齢 ・忠廣:53歳
備 考 ・加藤忠廣は加藤清正、正応院との子供として生まれました。幼少時に家督を継ぎ熊本藩主に就任した事から家臣の対立を招き牛方馬方騒動が発生しています。その後も波乱含みで結果的に改易になり庄内藩に流されています。霊廟+五輪塔
加藤忠廣・正応院:墓碑(お墓)
【 人物名・加藤清正 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:天澤寺 】
埋葬者 ・加藤清正
名 称 ・天澤寺
所在地 ・山形県鶴岡市丸岡町の内
法 名 ・浄池院殿永運日乗大居士
没 年 ・慶長16年=1611年
年 齢 ・50歳
備 考
歴 史
略 歴
・加藤清正が慶長16年に死去すると、忠廣が家督を継ぎますが藩政が不安定だったらしく、寛永9年に改易となっています。忠廣と側室である正応院は密かに清正の遺骨を掘り出し配流先の丸岡に改葬しています。墓碑である五輪塔の下には肥前弓野焼の遺骨壺があり、清正閣の下からは清正の鎧が出土しています。お墓の形状:霊廟
加藤清正:墓碑(お墓)

【 人物名・梅津中将実高 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:永鷲寺 】
埋葬者 ・梅津中将実高
名 称 ・永鷲寺
所在地 ・山形県鶴岡市添川池苗代
法 名
備 考 ・梅津中将実高の詳細は判りませんが、伝承によると宝治年間に鎌倉幕府5代執権北条時頼の命により出羽国探題として当地に赴任したとされます。梅津中将は添川城を拠点として政務を行い羽黒山の長吏職を兼ねていたようです。城下町には鳥海山大物忌神社と月山神社から分霊を勧請し両所神社を創建、菩提寺として永鷲寺を中興し守護仏だった十一面観世音菩薩を本尊としています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
梅津中将実高:墓碑(お墓)
【 人物名・酒井忠解 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:道林寺 】
埋葬者 ・酒井忠解
名 称 ・道林寺
所在地 ・山形県鶴岡市大山3丁目
法 名 ・覚英日慈道林院
没 年 ・寛文8年=1668年
年 齢 ・26歳
備 考
歴 史
略 歴
・酒井忠解は寛永20年に酒井忠勝とおくめ(武山勘左衛門の娘・清涼院)との子供として生まれました。正保4年に忠勝が死去すると1万石が分知され大山藩を立藩し初代藩主に就任しています。万治2年に従五位下・備中守に列したものの寛文8年に病死しています。・墓石の形状:霊廟
酒井忠解:墓碑(お墓)
【 人物名・蜂子皇子 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:出羽三山神社 】
埋葬者 ・蜂子皇子
名 称 ・出羽三山神社
所在地 ・山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山
没 年 ・舒明13年=641年
年 齢 ・80歳、又は91歳
備 考
歴 史
略 歴
・蜂子皇子は欽明天皇23年に崇峻天皇の第三皇子として生まれたとされます。崇峻天皇5年に崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されると、身の危険を感じ聖徳太子の力を借り京都を脱出しました。日本海を利用して由来海岸に上陸し三本足の烏に導かれ羽黒山に登拝すると羽黒権現を感得し出羽三山を開山したと伝えられています。
・墓石の形状・種類:墳丘
蜂子皇子:墓碑(お墓)

【 人物名・戸沢政盛 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:瑞雲院 】
埋葬者 ・初代戸沢政盛
名 称 ・瑞雲院
所在地 ・山形県新庄市十日町
法 名 ・源勝院庭山前公
没 年 ・慶安元年=1648年
年 齢 ・64歳
備 考
歴 史
略 歴
・戸沢政盛は天正13年に戸沢盛安の子供として生まれ、文禄元年に盛安の死去に伴い家督を継いでいます。関ヶ原の戦いでは東軍として行動したものの、出羽国統一を目論む最上義光の嘘言により本拠地だった角館から松岡藩に減封となっています。大坂の陣の功や鳥居忠政と縁戚関係を結んだ事で新庄藩6万石に加増されています。
初代戸沢政盛:墓碑(お墓)
【 人物名・戸沢正庸・戸沢正ェ 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:瑞雲院 】
埋葬者 ・3代戸沢正庸・5代戸沢正ェ
名 称 ・瑞雲院
所在地 ・山形県新庄市十日町
法 名 ・正庸:源徳院?山常隆
・正ェ:智徳院仁山宗勇
没 年 ・正庸:元文5年=1740年
・正ェ:明和2年=1765年
年 齢 ・正庸:77歳
・正ェ:46歳
備 考 ・現在引き継がれている新庄祭は正ェが領民に活気を与え五穀豊穣を祈願する為、新庄城に鎮座している天満神社の例祭を領民挙げて行った事が由来となっています。
3代戸沢正庸・5代戸沢正ェ:墓碑(お墓)
【 人物名・戸沢正勝 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:瑞雲院 】
埋葬者 ・4代戸沢正勝
名 称 ・瑞雲院
所在地 ・山形県新庄市十日町
法 名 ・威箭院重山両透
没 年 ・延享2年=1745年
年 齢 ・27歳
備 考
歴 史
略 歴
・戸沢正勝は享保4年に戸沢正庸の子供として生まれています。元文2年に正庸が隠居した事で戸沢家の家督を継ぎ新庄藩4代藩主に就任しています。
4代戸沢正勝:墓碑(お墓)
【 人物名・戸沢正産・戸沢正令 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:瑞雲院 】
埋葬者 ・6代戸沢正産・10代戸沢正令
名 称 ・瑞雲院
所在地 ・山形県新庄市十日町
法 名 ・正産:宿仙院徳巌慈本
・正令:仁亮院豪道善雄
没 年 ・正産:安永9年=1780年
・正令:天保14年=1843年
年 齢 ・正産:23歳
・正令:31歳
備 考 ・正令は藩政改革を積極的に行った人物で、教養人でもあり多くの著作物を残しています。
・墓石の形状・種類:霊廟+和型墓石
6代戸沢正産・10代戸沢正令:墓碑(お墓)
【 人物名・戸沢正良 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:瑞雲院 】
埋葬者 ・7代戸沢正良
名 称 ・瑞雲院
所在地 ・山形県新庄市十日町
法 名 ・戒運院勇山良将
没 年 天明6年=1786年
年 齢 ・26歳
備 考
歴 史
略 歴
・戸沢正良は宝暦11年に戸沢正ェと心涼院との次男として生まれました。家督は兄である戸沢正産が継ぎましたが子供が無く安永9年に病死し末期養子が認められ事から7代藩主に就任しています。天明3年に発生した天明の大飢饉では慢性化した財政難も重なり大きく疲弊しています。
・墓石の形状・種類:霊廟+和型墓石
7代戸沢正良:墓碑(お墓)
【 人物名・戸沢正親・戸沢正胤・戸沢正実 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:瑞雲院 】
埋葬者 ・8代戸沢正親・9代戸沢正胤・11代戸沢正実
名 称 ・瑞雲院
所在地 ・山形県新庄市十日町
法 名 ・正親:賢涼院寛翁道清
・正胤:賢徳院義翁仁道
没 年 ・正親:寛政8年=1796年
・正胤:安政5年=1858年
・正実:明治29年=1896年
年 齢 ・正親:39歳
・正胤:67歳
・正実:65歳
備 考 ・墓石の形状・種類:霊廟+和型墓石
8代戸沢正親・9代戸沢正胤・11代戸沢正実:墓碑(お墓)
【 人物名・戸沢正誠 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:桂嶽寺 】
埋葬者 ・2代戸沢正誠
名 称 ・桂嶽寺
所在地 ・山形県新庄市十日町
法 名 ・大輝院鳳山徳公
没 年 ・享保7年=1722年
年 齢 ・83歳
備 考
歴 史
略 歴
・戸沢正誠は寛永17年に戸沢政盛と於佐古(久照院・楢岡光信の娘)との子供として生まれました。政盛の死去に伴い慶安3年に家督を継ぎ新庄藩2代藩主に就任しています。正誠は領内整備に尽力し瑞雲院の創建や葉山大円院や庭月観音の再興、鳥越八幡神社などの造営が行われています。
2代戸沢正誠:墓碑(お墓)
【 人物名・戸沢政武 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:桂嶽寺 】
埋葬者 ・戸沢政武
名 称 ・桂嶽寺
所在地 ・山形県新庄市十日町
法 名 ・桂嶽寺殿
没 年 ・貞享3年=1686年
年 齢 ・9歳
備 考
歴 史
略 歴
・戸沢政武は新庄藩2代藩主戸沢正誠の子供として生まれました。戸沢家の跡継ぎとして将来を嘱望されましたが、僅か9歳でこの世を去っています。正誠の悲しみは大きかったようで政武の菩提寺として万年寺(桂嶽寺)を現在地に遷し、自らの死に際しては遺言により桂嶽寺に埋葬され棺の中には政武画像が納められています。
戸沢政武:墓碑(お墓)

【 人物名・駒姫 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:専称寺 】
埋葬者 ・駒姫
名 称 ・専称寺・専称寺の画像と案内図
所在地 ・山形県山形市緑町3丁目
法 名 ・諦雲院殿誓聴大姉
没 年 ・文禄4年=1595年
年 齢 ・15歳
備 考
歴 史
略 歴
駒姫は天正7年に最上義光と釈妙英(大崎義直の娘)との次女として生まれました。絶世の美少女だったとされ九戸の乱を鎮圧した豊臣秀次が凱旋帰国の途中に山形城を訊ねた際、偶々見かけた駒姫を側室になるよう要請しました。まだ婚儀は行われていませんでしたが、謀反の嫌疑で秀次が自刃すると連座し処刑されています。
駒姫:墓碑(お墓)
【 人物名・最上義光 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:光禅寺 】
埋葬者 ・最上義光
名 称 ・光禅寺
所在地 ・山形県山形市鉄砲町2丁目
法 名 ・光禅寺殿玉山道白大居士
没 年 ・慶長19年=1614年
年 齢 ・69歳
備 考
歴 史
略 歴
最上義光は天文15年に最上義守と小野少将との子供として生まれました。義光は義守との抗争を経て最上家の家督を継ぎ伊達家からの完全な独立を果たしています。その後は村山や最上、雄勝地方に進出、関ヶ原の戦いで東軍に与し勝利すると庄内地方を手中にし57万石で山形藩を立藩し初代藩主に就任しています。
最上義光:墓碑(お墓)
【 人物名・最上家親・最上義俊 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:光禅寺 】
埋葬者 ・最上家親・最上義俊
名 称 ・光禅寺
所在地 ・山形県山形市鉄砲町2丁目
法 名 ・家親:盛広院殿安慶長公大居士
・義俊:月照院殿華岳英心大居士
没 年 ・家親:元和3年=1617年
・義俊:寛永8年=1632年
年 齢 ・家親:36歳
・義俊:27歳
備 考 ・最上義俊は家親の死去に伴い家督を継いだものの幼少だった事もあり山野辺義忠を擁立する老臣達との御家騒動が発生し改易されています。
最上家親・最上義俊:墓碑(お墓)
【 人物名・最上家家臣 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:光禅寺 】
埋葬者 ・最上義光の葬儀後に殉死した四義士
名 称 ・光禅寺
所在地 ・山形県山形市鉄砲町2丁目
法 名 ・長岡但馬守:覚通義志居士
・山家河内守:即永了心居士
・寒河江肥前守:直庭是正居士
・寒河江十兵尉:活翁快言居士
没 年 ・長岡但馬守:慶長19年
・山家河内守:慶長19年
・寒河江肥前守:慶長19年
・寒河江十兵尉:慶長19年
備 考 ・最上義光の葬儀の際に殉死した4名の墓碑が光禅寺の義光の隣地に建立されています。
最上義光の葬儀後に殉死した四義士:墓碑(お墓)

【 人物名・最上(斯波)直家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:金勝寺 】
埋葬者 ・最上(斯波)直家
名 称 ・金勝寺
所在地 ・山形県山形市山家本町2丁目
法 名 ・金勝寺殿月潭光公
没 年 ・応永17年=1410年
備 考
歴 史
略 歴
・最上(斯波)直家は室町時代に斯波兼頼の子供として生まれました。永和元年、兼頼の隠居に伴い家督を継ぎ、応永元年に最上屋形を名乗りました。その後は鎌倉公方足利家に従い、霊山や大佛城、苅田城攻めに従軍しています。後年は子息を周辺地域に配し版図拡大に尽力しています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
最上(斯波)直家:墓碑(お墓)
【 人物名・斯波兼頼 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:光明寺 】
埋葬者 ・斯波兼頼
名 称 ・光明寺
所在地 ・山形県山形市七日町5丁目
法 名 ・光明寺殿成覚就公大居士
没 年 ・康暦元年/天授5年=1379年
年 齢 ・64歳
備 考
歴 史
略 歴
・斯波兼頼は斯波家兼の子供として生まれました。関東執事斯波家長や奥州管領斯波家兼に従い、延文元年には出羽国按察使に任命され出羽国最上郡山形に入り、延文2年には居城となる山形城を築城しています。その後は陸奥国内の北朝方の有力武将として各地を転戦しています。
斯波兼頼:墓碑(お墓)
【 人物名・最上義定 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:雲祥院 】
埋葬者 ・最上義定
名 称 ・雲祥院
所在地 ・山形県山形市大字中野
法 名 ・雲照寺殿惟翁勝公大居士
没 年 ・永正17年=1520年
備 考
歴 史
略 歴
・最上義定は最上義淳の子供として生まれました。永正元年、義淳の死去に伴い家督を継ぎ、3度にわたる寒河江氏攻めにより有利な条件で講和を結んでいます。永正11年に伊達家の侵攻を受け敗北、これにより伊達家からの影響力が強くなり後継人事にも介入される事になります。
・墓石の形状・種類:和型墓石
最上義定:墓碑(お墓)
【 人物名・鳥居忠政 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:長源寺 】
埋葬者 ・鳥居忠政
名 称 ・長源寺
所在地 ・山形県山形市七日町3丁目
没 年 ・寛永5年=1628年
年 齢 ・63歳
備 考
歴 史
略 歴
・鳥居忠政は永禄9年に鳥居元忠、松平家広娘との子供として生まれました。父親と共に早くから徳川家に従い関ヶ原の戦いでは本人は江戸城留守居役を勤め、元忠は伏見城で壮絶な最期を遂げました。家康は元忠の忠義に応える為、忠政を磐城平藩10万石に加増され、さらに山形藩22万石に大抜擢されています。
・墓石の形状・種類:大名墓
鳥居忠政:墓碑(お墓)
【 人物名・水野元宣 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:長源寺 】
埋葬者 ・水野元宣
名 称 ・長源寺
所在地 ・山形県山形市七日町3丁目
没 年 ・明治2年=1869年
年 齢 ・27歳
備 考
歴 史
略 歴
・水野元宣は天保14年に水野元永の子供として生まれました。元治元年元永の隠居に伴い家督を継ぎ、山形藩の家老に就任、慶応2年に藩主となった水野忠弘は幼少だった事から元宣が中心となり藩政改革が行われました。戊辰戦争の際には首席家老として難局を一身に背負い、戦後は責任を取らされ長源寺で処刑されています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
水野元宣:墓碑(お墓)

【 人物名・最上満直 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:法祥寺 】
埋葬者 ・最上満直
名 称 ・法祥寺
所在地 ・山形県山形市七日町4丁目
法 名 ・法祥寺殿念叟親公大居士
没 年 ・応永20年=1413年
年 齢
備 考
歴 史
略 歴
・最上満直は最上直家と伊達宗遠の娘との子供として生まれました。応永17年に直家の死去に伴い家督を継ぎ、蘆名詮盛の娘を正室として迎えています。後年は子供達を各地に配して版図拡大に尽力しています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
最上満直:墓碑(お墓)
【 人物名・阿古耶姫 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:万松寺 】
埋葬者 ・阿古耶姫・藤原実方朝臣・中将姫(十六夜姫)
名 称 ・万松寺
所在地 ・山形県山形市平清水
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・阿古耶姫は藤原鎌足の曾孫で信夫郡の郡司とされる藤原中納言豊充の娘で、千歳山に生える老松の化身である名取左衛門太郎と恋に落ちました。老松が切り倒されると嘆き悲しみましたが老松を供養する為に草庵を設け、苗木を植えたと伝えられています。
・墓石の形状・種類:和型墓石(?)
阿古耶姫・藤原実方朝臣・中将姫(十六夜姫):墓碑(お墓)
【 人物名・鳥居忠政 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:山寺立石寺 】
埋葬者 ・鳥居忠政
名 称 ・山寺立石寺
所在地 ・山形県山形市大字山寺
没 年 ・寛永5年=1628年
年 齢 ・63歳
備 考
歴 史
略 歴
・鳥居忠政が山形藩に入封すると最上家所縁の社寺が冷遇されました。特に立石寺山寺は寺領一部が取り上げられた事から僧侶による呪詛が行われ、忠政は謎の死を遂げました。跡を継いだ鳥居忠恒は、和解を御試み、その一環として忠政の宝篋印塔が境内に奉納されています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
鳥居忠政(山寺立石寺):墓碑(お墓)
【 人物名・清和天皇 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:山寺立石寺 】
埋葬者 ・清和天皇
名 称 ・山寺立石寺
所在地 ・山形県山形市大字山寺
没 年 ・元慶4年=881年
年 齢 ・31歳
備 考
歴 史
略 歴
・山寺立石寺は貞観2年に清和天皇の勅願で慈覚大師円仁が開山したとの由緒を持っています。元慶4年に清和天皇が崩御すると感謝の意から根本中堂の隣に供養塔となる五輪塔が建立され盂蘭盆会では盛大に供養したそうです。現在、山寺の境内にある石塔の中では最古のものとされます。
・墓石の形状・種類:五輪塔
清和天皇:墓碑(お墓)
【 人物名・最上義光 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:山寺立石寺 】
埋葬者 ・最上義光
名 称 ・山寺立石寺
所在地 ・山形県山形市大字山寺
法 名 ・光禅寺殿玉山道白大居士
没 年 ・慶長19年=1614年
年 齢 ・69歳
備 考
歴 史
略 歴
・最上義光は山寺立石寺を篤く庇護し、寺領1千300石を安堵し納経堂の修造を行っています。慶長19年に義光が死去すると比較的早い段階で御霊屋が造営され、内部の厨子には義光と家臣等10名の位牌が安置されています。
・墓石の形状・種類:霊廟
宝珠山立石寺の画像と案内図
最上義光(山寺立石寺):墓碑(お墓)

【 人物名・大江知広 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:澄江寺 】
埋葬者 ・大江知広
名 称 ・澄江寺
所在地 ・山形県寒河江市本町3丁目
法 名 ・澄江寺殿高嶽棟公
没 年 ・明応3年=1494年
備 考
歴 史
略 歴
・大江知広は寒河江為広の子供として生まれました。文明18年に為広が死去すると寒河江家13代当主の家督を継ぎ、寒河江城6代目城主となっています。長享3年には両親の菩提を弔う為に澄江院を創建しています。明応3年に知広が死去すると夫人が当地に遷し菩提を弔うと共に寺号を改めています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
大江知広:墓碑(お墓)
【 人物名・大江氏 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:長念寺 】
埋葬者 ・大江氏
名 称 ・長念寺
所在地 ・山形県寒河江市2丁目
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・寒河江大江氏の祖である大江広元は鎌倉幕府初代政所別当を担った人物で、奥州合戦で戦功を挙げ長井荘と寒河江荘の地頭職を得ています。その後、嫡男である大江親広が寒河江荘の地頭職を継承し寒河江八幡宮慈恩寺などを保護、後裔は国人領主として戦国時代まで当地を支配しています。
・墓石の形状・種類:自然石
大江氏:墓碑(お墓)
【 人物名・松平家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:浄光寺 】
埋葬者 ・松平家
名 称 ・浄光寺
所在地 ・山形県上山市軽井沢2丁目
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・藤井松平家は三河国碧海郡藤井を本貫とした氏族で、特に松平信一は徳川家康の家臣として主要な合戦に従軍し戦功を挙げています。元禄10年に松平信通が3万石で上山藩に入封すると明治維新まで藩主を歴任しています。幕末には大坂警備や江戸市中警備などの重責を担い、軍備の洋式化や薩摩藩邸の襲撃などを行っています。
・墓石の形状・種類:大名墓、五輪塔
松平家:墓碑(お墓)
【 人物名・最上満国 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:祥雲寺 】
埋葬者 ・最上満国
名 称 ・祥雲寺
所在地 ・山形県村山市楯岡湯沢
法 名 ・祥雲寺殿明岩壽見大居士
没 年 ・嘉吉2年=1442年
備 考
歴 史
略 歴
・最上満国は最上満直の四男として生まれました。応永13年に楯岡城に配された事から地名に因み「楯岡」姓を掲げたとされます。満国は楯岡城の整備拡張や鎮守社である楯岡八幡神社の再建、菩提寺となる祥雲寺の創建などに尽力し、後裔は七代にわたり当地を支配しました。
・墓石の形状・種類:五輪塔
最上満国:墓碑(お墓)

【 人物名・織田家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:三宝寺 】
埋葬者 ・織田家
名 称 ・三宝寺
所在地 ・山形県天童市仲町1丁目
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・織田信長の次男信雄の血統で、当初は小幡藩2万石でありながら名門だった事から国持大名格でした。明和事件後に懲罰的に国持大名格は失われ高畠藩に移封となり、さらに天保2年に本拠を天童陣屋に遷し天童藩を立藩しています。菩提寺である三宝寺の御霊屋には歴代織田家の位牌が安置されています。
・墓石の形状・種類:霊廟
織田家:墓碑(お墓)
【 人物名・天童頼直 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:天童城主九代の墓 】
埋葬者 ・天童頼直
名 称 ・天童城主九代の墓
所在地 ・山形県天童市北目
法 名
没 年 ・応永17年=1410年
備 考
歴 史
略 歴
・天童頼直は最上直家の子供として生まれ、正平11年/延文元年に里見義宗の養子となりました。天授元年/永和元年に本拠地を成生楯から、天童城に遷した事から「天童」姓を掲げたとされます。頼直は積極的に版図拡大を行ったようで子供達を東根・上山・鷹巣に配しています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
天童頼直:墓碑(お墓)
【 人物名・天童氏 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:天童城主九代の墓 】
埋葬者 ・天童氏
名 称 ・天童城主九代の墓
所在地 ・山形県天童市北目
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・天童城主九代の墓には頼直以下、頼勝、頼泰、頼基、頼氏、頼繁、頼尚、頼道、頼長、頼貞のものと思われる五輪塔が建立されています。天童頼澄は最上義光の侵攻を受け天童城が落城した事で、母方の実家である国分氏を頼り天童の地を去り、最終的に伊達家の家臣となっています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
天童氏:墓碑(お墓)
【 人物名・最上満家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:禅会寺 】
埋葬者 ・最上満家
名 称 ・禅会寺
所在地 ・山形県東根市大字長瀞
法 名 ・禅会寺殿虎山威公大居士
没 年 ・嘉吉3年=1443年又は応永32年=1425年
備 考 ・最上満家は最上満直の子供として生まれました。応永23年に満直の死去に伴い家督を継ぎ、最上家4代当主となっています。家督を子供である最上義春に譲ると、隠居城だった長瀞城に遷り嘉吉3年又は応永32年に死去したとされます。実績が記されている資料が少なく詳細は不詳ですが、応永22年に禅会寺を創建し自らの菩提寺にしたそうです。・墓石の形状:自然石
最上満家:墓碑(お墓)
【 人物名・里見景佐 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:御霊屋 】
埋葬者 ・里見景佐
名 称 ・里見景佐公の御霊屋
所在地 ・山形県東根市白水
法 名 ・劫外院殿雪山寒公大居士
没 年 ・元和6年=1621年
備 考
歴 史
略 歴
・里見景佐は東根氏の本家筋にあたる天童氏(里見氏)の一族と思われる人物で、天童氏は最上家に対し激しく対立していましたが、景佐は調略を受け最上義光に従っています。天正9年には東根城の城主東根頼景を殺害し東根氏の名跡を継いでいます。慶長出羽合戦でも大功を挙げ東根城1万2千石が安堵されています。
・墓石の形状・種類:霊廟+五輪塔
里見景佐:墓碑(お墓)
【 人物名・大貫次右衛門光證 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:龍昌寺 】
埋葬者 ・大貫次右衛門光證
名 称 ・龍昌寺
所在地 ・山形県尾花沢市上町1丁目
法 名 ・光徳院殿功岳慧勲大居士
没 年 ・天保15年=1844年
備 考
歴 史
略 歴
・大貫次右衛門光証は大貫光豊の子供として生まれました。文政6年、光豊の隠居に伴い家督を継ぎ、見習いから代官に昇進しています。天保2年に甲斐国の石和代官から尾花沢代官に就任し、天保15年に亡くなるまで14年間善政を行いました。特に天保の大飢饉の際には困窮した領民救済に尽力しています。
・墓石の形状・種類:大名墓
大貫次右衛門光證:墓碑(お墓)

【 人物名・順徳上皇 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:天子塚 】
埋葬者 ・順徳上皇
名 称 ・天子塚
所在地 ・山形県尾花沢市丹生
没 年 ・仁治3年=1242年
年 齢 ・44歳
備 考
歴 史
略 歴
・一般的な通説では討幕運動の失敗した順徳上皇は佐渡ヶ島へ流され仁治3年に佐渡で崩御した事になっていますが、当地に伝わる伝承によると、阿部常次郎頼時の助を借り、密かに佐渡を脱出すると最上川を遡り舟形山に潜幸、その後上の宿に御所を構え寛元4年にこの地で崩御したと伝えられています。
・墓石の形状・種類:墳丘墓
順徳上皇:墓碑(お墓)
【 人物名・中山玄蕃朝政 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:玄蕃壇 】
埋葬者 ・中山玄蕃朝政
名 称 ・玄蕃壇
所在地 ・山形県東村山郡中山町長崎西小路
没 年 ・天正11年=1583年
年 齢 ・68歳
備 考
歴 史
略 歴
・長崎中山氏は寒河江氏(大江氏)の譜代の家臣でしたが、天正12年に寒河江氏が没落すると当主である中山玄蕃朝政は最上義光に転じ7千石を安堵されました。天正15年には最上家の庄内侵攻にも従軍し尾浦城の城代を勤め庄内地方の目付に就任しています。
・墓石の形状・種類:石祠
中山玄蕃朝政:墓碑(お墓)
【 人物名・中山家(中山玄蕃朝政) 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:円同寺 】
埋葬者 ・中山家(中山玄蕃朝政)
名 称 ・円同寺
所在地 ・山形県東村山郡中山町大字長崎
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・長崎中山氏は寒河江氏(大江氏)の譜代の家臣でしたが、寒河江氏が滅ぶと最上家の家臣となっています。関ヶ原の戦いでは寒河江城で采配し上杉軍を迎え撃ちましたが落城しています。元和8年に御家騒動により最上家が改易になると阿部正次の預かりとなり、後に家臣として取り立てられています。
・墓石の形状・種類:和型墓石
中山家(中山玄蕃朝政):墓碑(お墓)
【 人物名・白鳥十郎長久 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:東林寺 】
埋葬者 ・白鳥十郎長久
名 称 ・東林寺
所在地 ・山形県西村山郡河北町谷地乙
法 名 ・大陽院殿丹山膺公大居士
没 年 ・天正12年=1584年
備 考
歴 史
略 歴
・白鳥十郎長久は白鳥義久の子供とされ、周辺領主と縁戚関係を重ね版図を広げ中条氏の名跡も継承しています。織田信長にも誼を通じるなど外交工作も積極的で将来を嘱望されましたが、最上義光から敵視され天正12年に義光が重病を理由に山形城に呼び出し謀殺しています。
・墓石の形状・種類:和型墓石
白鳥十郎長久:墓碑(お墓)
【 人物名・斎藤茂吉 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:乗舩寺 】
埋葬者 ・斎藤茂吉
名 称 ・乗舩寺
所在地 ・山形県北村山郡大石田町大字大石田丙
法 名 ・赤光院仁誉遊阿暁寂清居士
没 年 ・昭和28年=1953年
年 齢 ・70歳
備 考
歴 史
略 歴
・斎藤茂吉は明治15年に山形県南村山郡金瓶村の守谷伝右衛門熊次郎の三男として生まれました。創作活動は東京が中心でしたが昭和21年に太平洋戦争の戦禍を避け大石田町に移住しています。斎藤茂吉はニ藤部家の離れである聴禽書屋で2年間過ごした縁で乗舩寺にも墓碑が建立されています。・墓石の形状:和型墓石
斎藤茂吉:墓碑(お墓)

【 人物名・前田慶次 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:堂森善光寺 】
埋葬者 ・前田慶次
名 称 堂森善光寺
所在地 ・山形県米沢市万世町堂森山下
没 年 ・慶長10年=1605年又は慶長17年=1612年
年 齢 ・69歳
備 考
歴 史
略 歴
・前田慶次は滝川家の一族出身とされ、前田利久の養子になると前田利家に従っています。天正18年以降に前田家を出奔し様々な文化人と交流した事で一流の教養人だったようです。その後、上杉家に仕官し関ヶ原の戦い以後は上杉家に従い米沢で悠々自適の生活をしたとされます。
・墓石の形状・種類:霊廟+供養塔
前田慶次:墓碑(お墓)
【 人物名・直江兼続・船 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:林泉寺 】
埋葬者 ・直江兼続・船
名 称 林泉寺
所在地 ・山形県米沢市林泉寺1丁目
法 名 ・兼続:英貔院殿達三全智居士
・船:宝林院殿月桂貞心大姉
没 年 ・兼続:元和5年=1620年
・船:寛永14年=1637年
年 齢 ・兼続:60歳
・船:81歳
備 考 ・直江兼続は永禄3年に樋口兼豊の子供として生まれ、幼少の頃から上杉景勝の小姓・近習として仕えていました。その後は景勝の側近として重きを成し、上杉家の執政となっています。
直江兼続・船:墓碑(お墓)
【 人物名・武田信清 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:林泉寺 】
埋葬者 ・武田信清
名 称 ・林泉寺
所在地 ・山形県米沢市林泉寺1丁目
法 名 ・虎山玄竜居士
没 年 ・寛永19年=1642年
年 齢 ・80歳又は83歳
備 考
歴 史
略 歴
・武田信清は武田信玄の7男とされ、安田家の名跡を継ぎ海野城の城主を担いましたが、武田家が滅亡すると上杉景勝の正室で異母姉である菊姫を頼り越後に落ち延び上杉家の家臣となっています。米沢藩では上杉家一門・高家衆筆頭として3千3百石の所領を得ています。
武田信清:墓碑(お墓)
【 人物名・上杉家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:林泉寺 】
埋葬者 ・上杉家
名 称 ・林泉寺
所在地 ・山形県米沢市林泉寺1丁目
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・林泉寺は長尾家の菩提寺だった寺院で、上杉家当主の菩提寺では無いものの一族や家臣の菩提寺として、仙桃院や菊姫、吉井信謹、直江兼続、お船の方夫妻、武田信清一族、長尾権四郎一族、水原親憲、甘粕景継、能登畠山氏一族、二本松氏一族、吉江宗信一族、富所伯耆守一族、黒金泰忠などの墓碑が建立されています。
・墓石の形状・種類:家型鞘堂
上杉家:墓碑(お墓)
【 人物名・色部家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:千眼寺 】
埋葬者 ・色部家
名 称 ・千眼寺
所在地 ・山形県米沢市窪田町窪田
法 名
没 年
年 齢
備 考
歴 史
略 歴
・色部家は桓武平氏、秩父氏の流れを汲む氏族で、地頭として越後小泉庄色部条を本貫とした事から「色部」姓を掲げました。南北朝時代に平林氏を滅ぼすと以後、平林城を本拠としています。戦国時代以降は上杉家に従い、江戸時代は米沢藩上杉家の家老を歴任しています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
色部家:墓碑(お墓)

【 人物名・竹俣美作当綱 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:常慶院 】
埋葬者 ・竹俣美作当綱
名 称 ・常慶院
所在地 ・山形県米沢市大字南原横堀町
法 名 ・大忠院殿雄山良英居士
没 年 ・寛政5年=1793年
年 齢 ・63歳
備 考
歴 史
略 歴
・竹俣当綱は享保14年に竹俣本綱の子供として生まれました。父親が家督を継ぐ前に死去した事から、祖父である竹俣充綱が死去すると家督を直接継いでいます。会談所奉行や江戸家老、執政などの要職を歴任し疲弊していた米沢藩の藩政改革を断行し結果を出したものの公私混同も多く晩年は失脚しています。
竹俣美作当綱:墓碑(お墓)
【 人物名・竹俣家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:常慶院 】
埋葬者 ・竹俣家
名 称 ・常慶院
所在地 ・山形県米沢市大字南原横堀町
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・竹俣家は鎌倉幕府の有力御家人だった佐々木盛綱の後裔である加地氏の一族とされ、戦国時代には「揚北衆」の一翼を担い国人領主として一定の勢力を保持していました。上杉謙信が台頭するとこれに従い上杉二十五将の一人に数えられています。米沢藩では重臣として重きを成し竹俣当綱を輩出しています。
・墓石の形状・種類:家型鞘堂
竹俣家:墓碑(お墓)
【 人物名・市川家(市河家) 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:常慶院 】
埋葬者 ・市川家(市河家)
名 称 ・常慶院
所在地 ・山形県米沢市大字南原横堀町
法 名
備 考 ・市河家の出生は諸説入り乱れて不詳、中世は信濃国志久見郷を本拠として一定程度の勢力を維持していました。戦国時代に武田信玄が信濃に侵攻するとこれに従い、武田家が滅ぶと織田家家臣森長可に従ったものの、本能寺の変後に自領に引き上げた為、これを機に上杉景勝に従っています。米沢藩では席次第18位、藩内1066石を所領しています。
・墓石の形状・種類:家型鞘堂
市川家(市河家):墓碑(お墓)
【 人物名・千坂景親・那須与一 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:一花院跡 】
埋葬者 ・千坂景親・那須与一
名 称 ・一花院跡
所在地 ・山形県米沢市中央5丁目
法 名 ・与一:即成院殿禅海宗悟大居士
没 年 ・景親:慶長11年=1606年
・与一:文治5年=1189年又は建久元年=1190年
年 齢 ・景親:71歳
・与一:20歳など
備 考 ・千坂景親は天文5年に千坂景長の子供として生まれました。千坂家は上杉家の重臣だった家柄だった為、謙信が上杉家の名跡を継ぐと引き続き重臣としての重責を担いました。謙信が病死する上杉景勝に従い、主に外交交渉などで力を発揮しています。

文禄4年には豊臣秀吉の伏見城の普請総奉行を担い、竣工後は上杉家の伏見留守居役に就任し5千5百石を所領しました。米沢藩時代は江戸家老に就任し、席次第8位、藩内1565石を所領しました。

千坂家は那須家の系統だったと云われる事から祖霊として那須与一を合祀したのかもしれません。

・墓石の形状:石造多層塔
千坂景親・那須与一
【 人物名・上杉謙信 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉謙信
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・不識院殿心光謙信 法印大阿闍梨
没 年 ・天正6年=1578年
年 齢 ・48歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉謙信が死去すると甲冑を着せて甕に納め春日山城の城内に埋葬されましたが、上杉景勝が会津に移封になった際、捨て置かれた為、新たな城主となった堀家から叱責され大きな遺恨となっています。その後、米沢城に改葬され、明治時代に米沢城が廃城になった為、上杉家廟所に改葬されています。
上杉謙信:墓碑(お墓)

【 人物名・上杉景勝 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉景勝
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・覚上院殿法印権大僧都宗心
没 年 ・元和9年=1623年
年 齢 ・69歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉景勝は弘治元年に長尾政景と仙桃院との子供として生まれました。仙桃院は上杉謙信の実姉だった事から謙信の養子となり、謙信の死後は家督争いである御館の乱を勝ち抜き上杉家の当主となりました。豊臣政権下では五大老の一翼を担いましたが、関ヶ原の戦いで敗北し米沢藩30万石に減封されています。
上杉景勝:墓碑(お墓)
【 人物名・上杉定勝 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉定勝
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・大上院殿権大僧都隆心
没 年 ・正保2年=1645年
年 齢 ・42歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉定勝は慶長9年に上杉景勝と桂岩院(四辻公遠娘)との子供として生まれました。元和9年に景勝が死去すると家督を継ぎ米沢藩2代藩主に就任しています。幼少期は桂岩院が産後の肥立ちが悪く死去した事からお船の方が養育した関係でしたが、お舟が死去すると直江体制が改められ、直江家の菩提寺徳昌寺も廃寺となっています。
上杉定勝:墓碑(お墓)
【 人物名・上杉綱勝 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉綱勝
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・上性院瑛心
没 年 ・寛文4年=1664年
年 齢 ・26歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉綱勝は寛永15年に上杉定勝と生善院(近衛家家司斉藤本盛娘)との子供として生まれました。正保2年に定勝の死去に伴い家督を継ぎ米沢藩3代藩主に就任しています。青苧検地や納方新帳の編成、キリシタン弾圧などを行ったものの嗣子が無く死去し、末期養子が認められたものの15万石に減じられています。
上杉綱勝:墓碑(お墓)
【 人物名・上杉綱憲 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉綱憲
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・法林院殿法印権大僧都映心
没 年 ・宝永元年=1704年
年 齢 ・42歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉綱憲は寛文3年に吉良義央と上杉富子との子供として生まれました。上杉綱勝が嗣子が無く死去すると上杉家断絶の危機が訪れますが、保科正之の計らいで綱憲が末期養子となり4代藩主に就任しています。赤穂事件では実父義央の首が討たれ、対応に苦慮しています。
上杉綱憲:墓碑(お墓)
【 人物名・上杉吉憲 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉吉憲
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・樹徳院殿法印権大僧都泰心
没 年 ・享保7年=1722年
年 齢 ・39歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉吉憲は貞享元年に上杉綱憲と清寿院との子供として生まれました。元禄16年に綱憲の隠居に伴い家督を継ぎ5代藩主に就任しています。享保4年に弟である上杉勝周に1万石を分知し米沢新田藩を立藩させています。江戸城の石垣工事などを請け負った事から財政が逼迫しています。
上杉吉憲:墓碑(お墓)

【 人物名・上杉宗憲 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉宗憲
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・桂徳院殿法印権大僧都岳心
没 年 ・享保19年=1734年
年 齢 ・22歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉宗憲は正徳4年に上杉吉憲と祥寿院との子供として生まれました。享保7年に吉憲の死去に伴い家督を継ぎ米沢藩6代藩主に就任しています。就任当初は幼少だった事から上杉勝周が補佐、前代と同様に江戸城の普請工事を命じられた為、引き続き財政の困窮が続いています。
上杉宗憲:墓碑(お墓)
【 人物名・上杉宗房 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉宗房
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・英徳院殿法印権大僧都雄心
没 年 ・延享3年=1746年
年 齢 ・29歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉宗房は享保3年に上杉吉憲と祥寿院との子供として生まれました。宗房は次男でしたが、享保19年に兄である宗憲が跡継ぎ無く死去した事から、末期養子が認められ家督を継ぎ米沢藩7代藩主に就任しています。
上杉宗房:墓碑(お墓)
【 人物名・上杉重定 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉重定
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・東岳院殿法印大僧都寛心
没 年 ・寛政10年=1798年
年 齢 ・79歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉重定は享保5年に上杉吉憲と祥寿院との子供として生まれました。重定は4男でしたが長兄宗憲、次兄宗房は嗣子無く死去し、三男貞千代は畠山家の名跡を継いだ為、上杉家の家督を継ぎ米沢藩8代藩主に就任してます。引き続き財政難が続き東叡山寛永寺中堂普請手伝いが追い打ちをかけています。
上杉重定:墓碑(お墓)
【 人物名・上杉治憲 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉治憲
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・元徳院殿聖翁文心大居士
没 年 ・文政5年=1822年
年 齢 ・72歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉治憲は寛延4年に秋月種美と春姫との子供として生まれました。当時の米沢藩の財政は壊滅的に逼迫し領地返還を検討した程だった事から、遠縁にも関わらず兎に角優秀な藩主が望まれました。治憲は藩政改革を断行した事で多くの借金を返済し三百諸侯第一の賢君と称されました。
上杉治憲:墓碑(お墓)
【 人物名・上杉治広 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉治広
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・享徳院殿法印権大僧都恭心
没 年 ・文政5年=1822年
年 齢 ・59歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉治広は明和元年に上杉重定と於勢の方との子供として生まれました。天明2年に上杉治憲の養嗣子となり、天明5年に治憲の隠居に伴い家督を継ぎ米沢藩第10代藩主に就任しています。青年期に達していたものの、治憲も健在だった為、実際の藩政は治憲の影響力が多かったとされます。藩の借財は治広の代に概ね完済しています。
上杉治広:墓碑(お墓)

【 人物名・上杉斉定 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉斉定
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・俊徳院殿法印権大僧都誠心
没 年 ・天保10年=1839年
年 齢 ・52歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉斉定は天明8年に上杉勝熙と高田氏との子供として生まれました。勝熙は8代藩主上杉重定の孫に当たる人物で、寛政6年に上杉治広の養嗣子となり文化9年に治広の隠居に伴い家督を継ぎ米沢藩第11代藩主に就任しています。治憲治世の集大成を成し藩政基盤を確立しています。
上杉斉定:墓碑(お墓)
【 人物名・上杉顕孝 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:上杉家廟所 】
埋葬者 ・上杉顕孝
名 称 ・上杉家廟所
所在地 ・山形県米沢市御廟1丁目
法 名 ・瓊林院殿秀岸智英大禅定門
没 年 ・寛政6年=1794年
年 齢 ・19歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉顕孝は安永5年に上杉治憲と浄鏡院との子供として生まれました。天明2年に米沢藩第10代藩主上杉治広の養子となり細井平洲が師範になるなど将来を嘱望されましたが、寛政6年に疱瘡を患い病死しています。上杉家廟所の中では奥まった所に位置しています。
上杉顕孝:墓碑(お墓)
【 人物名・伊達政宗(儀山) 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:資福寺跡 】
埋葬者 ・九代伊達政宗(儀山)
名 称 ・資福寺跡
所在地 ・山形県東置賜郡高畠町夏刈
法 名 ・東光寺殿儀山圓孝大居士
没 年 ・応永12年=1405年
年 齢 ・53歳
備 考
歴 史
略 歴
・伊達政宗は正平8年/文和2年に伊達宗遠と高明院(結城宗広娘)との子供として生まれました。天授3年/永和3年に家督を相続すると出羽国置賜郡に侵攻し長井氏に勝利しています。伊達政宗の乱では鎌倉方の結城満朝や上杉氏憲と戦い何とか凌ぎ、本拠地を高畠城(高畑城)に遷しています。
九代伊達政宗(儀山):墓碑(お墓)
【 人物名・蘭庭明玉禅尼 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:資福寺跡 】
埋葬者 ・蘭庭明玉禅尼
名 称 ・資福寺跡
所在地 ・山形県東置賜郡高畠町夏刈
法 名 ・輪王寺殿
没 年 ・嘉吉2年=1442年
年 齢 ・87歳
備 考
歴 史
略 歴
・蘭庭明玉禅尼は延文元年に石清水八幡宮検校善法寺通清の子供として生まれました。姉である紀仲子は後円融天皇の生母、紀良子は室町幕府3代将軍足利義満の生母でもあり格式の高い人物だった事が窺えます。伊達家九代当主伊達政宗(儀山)の正室として迎え入れられ、陸奥国伊達郡に輪王寺(仙台市)を創建しています。
蘭庭明玉禅尼(九代伊達政宗(儀山)室):墓碑(お墓)
【 人物名・伊達輝宗 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:資福寺跡 】
埋葬者 ・伊達輝宗
名 称 ・資福寺跡
所在地 ・山形県東置賜郡高畠町夏刈
法 名 ・覚範寺殿性山受心大居士
没 年 ・天正13年=1585年
年 齢 ・42歳
備 考
歴 史
略 歴
・伊達輝宗は天文13年に伊達晴宗と久保姫との子供として桑折西山城で生まれました。永禄8年、晴宗の隠居に伴い家督を継ぎ米沢城の城主となっています。中野宗時・牧野久仲父子を排斥し家中を掌握すると織田信長や北条氏政など外交関係を積極的に築いています。
伊達輝宗:墓碑(お墓)

【 人物名・遠藤基信 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:資福寺跡 】
埋葬者 ・遠藤基信
名 称 ・資福寺跡
所在地 ・山形県東置賜郡高畠町夏刈
没 年 ・天正13年=1585年
年 齢 ・53歳
備 考
歴 史
略 歴
・遠藤基信は天文元年に陸奥国信夫郡に境内を構えていた西光寺の住職の子供として生まれたとされます。青年期までは諸国を流浪しその後に中野宗時の家臣として取り立てられています。宗時が謀反を起こすと、事前に伊達輝宗に通告した事から信任を得て、側近として特に外交交渉を担当しました。輝宗の墓前で殉死しています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
遠藤基信:墓碑(お墓)
【 人物名・原田家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:東陽寺 】
埋葬者 ・原田家
名 称 ・東陽寺
所在地 ・山形県東置賜郡川西町大字上小松
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・原田家は伊達朝宗の代から伊達家に従っていた譜代の家臣で、伊達輝宗が桑折西山城から米沢城に本拠地を遷すと原田美濃介が支城である原田城を築いています。原田宗時は伊達家の主要な合戦に従軍し朝鮮出兵の際に病死、原田甲斐宗輔は伊達騒動の主要人物で一家は断絶しています。
・墓石の形状・種類:石造多層塔
原田家:墓碑(お墓)
【 人物名・徳一上人の両親 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大光院 】
埋葬者 ・徳一上人の両親
名 称 ・大光院
所在地 ・山形県東置賜郡川西町大字上小松
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・詳細は判りませんが徳一上人が伝教大師最澄との三一権実諍論に敗れると、その罪により当地に流されたそうです。その郷愁を慰める為に村人達が躍ったのが「小松豊年獅子踊」、経典を一石一字ずつ書いて積み上げた塔婆を置霊と呼ばれるようになり、それが訛って「置賜」の由来になったとされます。
・墓石の形状・種類:石造多層塔
徳一上人の親:墓碑(お墓)
【 人物名・新野和泉 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:広野観音(真言院) 】
埋葬者 ・新野和泉
名 称 ・広野観音(真言院)
所在地 ・山形県西置賜郡白鷹町大字広野
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・新野和泉は沼沢伊勢と共に諏訪堰を開削した人物として知られてます。慶長10年、二人は自分達の命と引き換えに藩主に堰の開削を懇願し許可を得ました。正式には「浅立広野用水堰」と呼び最上川から取水し浅立・広野まで総延長約13`に及び、この堰により3千9百石の新田が開発されています。
・墓石の形状・種類:和型墓石
新野和泉:墓碑(お墓)

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