福島県の歴史上の人物の御墓

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【 人物名:佐藤継信・佐藤忠信 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:医王寺 】
埋葬者 ・佐藤継信・佐藤忠信
名 称 医王寺
所在地 ・福島県福島市飯坂町平野字寺前
没 年 ・継信:元暦2年=1185年
・忠信:文治2年=1186年
年 齢 ・継信:36歳
・忠信:34歳
備 考 ・兄弟共に奥州藤原氏に仕えていましたが、藤原秀衡の命により源義経の家臣となり義経四天王に数えられました。継信は屋島の戦いで討死、忠信は引き続き義経と共に平家軍と戦い続け平家打倒を完遂しています。義経が頼朝に追討されると一時分かれた際に密告され暗殺されています。
佐藤継信・佐藤忠信:墓碑(お墓)の画像
【 人物名:田村家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:福聚寺 】
埋葬者 ・田村義顕・田村隆顕・田村清顕
名 称 福聚寺
所在地 ・福島県田村郡三春町字御免町
法 名 ・清顕:長雲寺殿前光録大夫空山松公大居士
没 年 ・義顕:永禄4年=1561年
・隆顕:天正2年=1574年
・清顕:天正14年=1586年
備 考 ・田村氏は坂上田村麻呂の後裔を自称し陸奥国田村郡を本貫とする氏族で、当初は守山城を拠点としていましたが、義顕により三春城に本城を遷しています。隆顕は小領主ながら巧みに外交交渉を行い周辺の大名に対しています。清顕の娘愛姫は伊達政宗の正室として知られています。
田村義顕・田村隆顕・田村清顕:墓碑(お墓)
【 人物名:秋田家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:高乾院 】
埋葬者 ・秋田家
名 称 ・高乾院
所在地 ・福島県田村郡三春町字荒町
備 考 ・秋田家は俘囚長だった安部貞任、又は阿倍比羅夫を祖とする氏族で、当初は安東姓を掲げ津軽地方を本貫としていましたが、南部家によって攻められた事で本拠を失い事実上本家筋が滅亡しています。系譜上は蝦夷地に逃れた後に秋田郡に進出した事になっていますが、実際は分家筋が早くから秋田や男鹿、檜山地方に進出し勢力を拡大し出羽国の有力大名に成長しています。関ヶ原合戦後に宍戸藩を経て三春藩に入封し明治維新まで藩主を歴任しています。
秋田家:墓碑(お墓)
【 人物名:秋田家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:龍穏院 】
埋葬者 ・秋田家
名 称 ・龍穏院
所在地 ・福島県田村郡三春町荒町
法 名
備 考 ・秋田家の菩提寺は高乾院と龍穏院の二つの寺院が菩提寺となっています。これは、秋田家の前身である安東家が湊安東家と檜山安東家に分かれ愛季の代に統一した事に起因しています。湊安東家の菩提寺だった湊福寺(蒼龍寺)が後の高乾院となり、檜山安東家の菩提寺だった国清寺が後の龍穏院となっています。両寺は旧領である宍戸藩でも創建され現在も存続しています。
・墓石の形状・種類:石廟塔
秋田家2:墓碑(お墓)

【 人物名:白虎隊 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:妙国寺 】
埋葬者 ・白虎隊
名 称 ・妙国寺
所在地 ・福島県会津若松市一箕町八幡字墓料
備 考 ・幕末の悲運とも言える会津藩の若年層達で結成された白虎隊の墓は飯盛山が有名ですが、妙国寺にもあります。会津藩が降伏し新政府軍が城下町を掌握すると会津藩の戦死者は犯罪人として触る事すら許されず野ざらしにされました。これは若年が多かった白虎隊も同様に扱われましたが、哀れに思った吉田伊惣治など村人達は密かに遺体を妙国寺に運んで埋葬しました。その後、埋葬が許されたのを見計らい飯森山に本葬されました。
・墓石の形状・種類:自然石(額入)
白虎隊(妙国寺):墓碑(お墓)
【 人物名:相馬家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:同慶寺 】
埋葬者 ・相馬家
名 称 ・同慶寺
所在地 ・福島県南相馬市小高区小高字上広畑
備 考 ・相馬家は桓武平氏良文流千葉氏の庶流、千葉常胤の次男である師常が下総国相馬郡相馬御厨を本貫とした事から「相馬」姓を掲げました。重胤の代に源頼朝の許しを得て陸奥国行方郡に進出、残された下総相馬家は数千石程度で大名化には至らず、陸奥相馬家は行方・標葉・宇多の3郡に版図を広げ大名化に成功しました。関ヶ原の戦いでは関係が深かった常陸の佐竹氏と共に東西中立を保った事から改易になりましたが、数年にわたり幕府と交渉し中村藩主として復権しました。
相馬家:墓碑(お墓)
【 人物名:徳一大師 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:徳一廟 】
埋葬者 ・徳一大師
名 称 徳一廟
所在地 ・福島県耶麻郡磐梯町大字磐梯字寺西
没 年 ・天長元年=824年
年 齢 ・76歳
備 考
歴 史
略 歴
・徳一大師は奈良時代後期から平安時代初期の名僧で、日本の天台宗の開祖である最澄とも論争を交わしています。その後、常陸国や陸奥国で仏教を広げ、特に恵日寺を拠点として会津仏教界に大きな影響を与えています。現在でも徳一大師が開山や中興したとの由緒を持つ寺院が数多く存在しています。
・墓石の形状・種類:霊廟+石造多層塔(五重)
徳一大師:墓碑(お墓)
【 人物名:乗丹坊 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:乗丹坊墓塔 】
埋葬者 ・乗丹坊
名 称 ・乗丹坊墓塔
所在地 ・福島県耶麻郡磐梯町大字磐梯字寺西
没 年 ・寿永元年=1182年
備 考 ・乗丹坊は平安時代末期の慧日寺の僧侶とされ衆徒頭の地位にありました。乗丹坊は越後守護の城氏とも関係が深く承安2年に越後国東蒲原郡小川庄を賜っています。当時の慧日寺は寺僧三百、僧兵数千を擁する大勢力だった事から一大戦力として考えられ養和元年には平家の要請を受けて木曽義仲追討の為に出陣しています。しかし、信州横田川原合戦で大敗し討死、これにより慧日寺の勢力が大きく削がれています。
乗丹坊:墓碑(お墓)
【 人物名:丹羽家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大隣寺 】
埋葬者 ・丹羽家
名 称 大隣寺
所在地 ・福島県二本松市成田町1丁目
備 考 ・丹羽家は桓武天皇の皇子良岑安世、又は児玉惟行を祖とする氏族で尾張国春日井郡児玉村を本貫としました。丹羽長秀は織田信長に仕え、特に豊臣秀吉に早くから協力した事で123万石の大大名に出世しました。丹羽長重は波乱万丈の大名で、大幅減封や改易などを繰り返しながら白河藩10万石で復権しています。丹羽光重の代で二本松藩に移封となり、以後明治維新まで丹羽家が藩主を歴任しています。
・墓石の形状・種類:大名墓
丹羽家:墓碑(お墓)
【 人物名:二本松少年隊 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大隣寺 】
埋葬者 ・二本松少年隊
名 称 ・大隣寺
所在地 ・福島県二本松市成田町1丁目
備 考 ・戊辰戦争下での少年兵の悲運は会津藩の白虎隊が有名ですが、二本松藩でも緊急時を理由に最年少12歳が出陣するという事態に陥っています。特に木村銃太郎22歳指揮下の25名は少年だけで組織された隊で、大壇口での戦いで多くが討死しています。大村隊は副隊長の二階堂衛守が33歳だったものの、その他は17歳から12歳で編成され、14〜15歳の年齢の者が一番多い層でした。
・墓石の形状・種類:自然石
二本松少年隊:墓碑(お墓)

【 人物名:西郷家等21名 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:善龍寺 】
埋葬者 ・21人の墓
名 称 善龍寺
所在地 ・福島県会津若松市北青木
備 考 ・戊辰戦争時、新政府軍が城下町まで侵攻、会津藩は鶴ヶ城に立て籠もり籠城戦を展開していた際、家老だった西郷頼母の一族は人質になるのを恥、又は足手まといになるのを嫌い21人が自刃して果てています。

・浅井たつ子・浅井彦・小森ヒデ・小森ミワ・小森千代吉・小森ツネ・小森ミツ・西郷律子・西郷千重子・西郷眉寿子・西郷由布子・西郷細布子・西郷瀑布子・西郷田鶴子・西郷常盤子・西郷季子・西郷鉄之助・西郷きく子・町田伝八・町田ふさ子・町田浦路

21人の墓:墓碑(お墓)
【 人物名:西郷頼母 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:善龍寺 】
埋葬者 ・西郷頼母
名 称 ・善龍寺
所在地 ・福島県会津若松市北青木
法 名 ・栖雲院殿従七位八握髯翁大居士
没 年 ・明治36年=1903年
年 齢 ・74歳
備 考
歴 史
略 歴
・西郷頼母は幕末時の会津藩の家老を務めた人物で、京都守護職の辞退を求めるなど政局からは距離をとるように進言しています。新政府軍が鶴ヶ城の城下にまで侵攻すると藩主である松平容保に対して切腹を迫った事から反発をかい身の危険を感じた為、越後口の萱野長修の軍への連絡にかこつけ城内から脱出し逃亡しています。
西郷頼母:墓碑(お墓)
【 人物名:町野主水 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:融通寺 】
埋葬者 ・町野主水
名 称 ・融通寺
所在地 ・福島県会津若松市大町
法 名 ・武孝院殿顕譽誠心清居士
没 年 ・大正12年=1923年
年 齢 ・85歳
備 考
歴 史
略 歴
・町野主水は会津藩の藩士で江戸時代末期には御蔵入奉行兼幌役を担っています。戊辰戦争では主要な合戦に参加したものの鶴ヶ城に籠城後には家族の多くが自刃するという悲劇がありました。会津藩降伏後は会津の復興や戦没者の埋葬に尽力し最後の会津武士とも云われました。
町野主水:墓碑(お墓)
【 人物名:蒲生秀行 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:蒲生秀行廟 】
埋葬者 ・蒲生秀行
名 称 ・蒲生秀行廟(弘真院跡)
所在地 ・会津若松市館馬町
法 名 ・弘真院殿覚山浄雲大居士
没 年 ・慶長17年=1612年
年 齢 ・30歳
備 考
歴 史
略 歴
蒲生秀行は天正11年に蒲生氏郷と相応院(織田信長の次女)との嫡男として生まれました。文禄4年に氏郷は死去すると相続問題や蒲生騒動が発生し家督は認められたものの慶長3年には会津92万石から宇都宮18万石に大減封となっています。関ヶ原の戦いでは東軍に与し60万石で会津藩主に復権しています。
蒲生秀行:墓碑(お墓)
【 人物名:蒲生氏郷 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:興徳寺 】
埋葬者 ・蒲生氏郷
名 称 興徳寺
所在地 ・福島県会津若松市栄町
法 名 ・昌林院殿高岩宗忠大居士
没 年 ・文禄4年=1595年
年 齢 ・40歳
備 考
歴 史
略 歴
・蒲生氏郷は弘治2年に蒲生賢秀と おきり(後藤播磨守の娘)との子供として生まれました。氏郷は織田信長から篤く寵愛を受け元服の際に烏帽子親となり次女相応院を正室に迎えています。その後は主要な合戦に従軍して地位を確立し本能寺の変では安土城に居た織田一族を保護し、秀吉政権下では会津92万石の大大名となっています。
蒲生氏郷:墓碑(お墓)

【 人物名:郡長正 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:天寧寺 】
埋葬者 ・郡長正
名 称 天寧寺
所在地 ・福島県会津若松市東山町石山天寧
法 名 ・清心院殿覺道宗性居士
没 年 ・明治4年=1871年
年 齢 ・15歳
備 考
歴 史
略 歴
・郡長正は安政3年に会津藩の家老を担った萱野長修とタニとの次男として生まれました。長修は戊辰戦争で会津藩が敗北した事を受けて自刃、萱野家も断絶となり長男は長準以外の一族は「郡」姓に改めています。文武両道に優れ将来を嘱望された事から小倉藩の藩校育徳館に留学しましたが程なく自刃しています。
郡長正:墓碑(お墓)
【 人物名:近藤勇 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:天寧寺 】
埋葬者 ・近藤勇
名 称 ・天寧寺
所在地 ・福島県会津若松市東山町石山天寧
法 名 ・貫天院殿純忠誠義大居士
没 年 ・慶応4年=1868年
年 齢 ・35歳
備 考
歴 史
略 歴
・近藤勇は百姓の生まれでしたが、天然理心流剣術3代目宗家近藤周助の養子となり4代目を継承し名実共に武士となりました。その後、壬生浪士組を経て新選組を発足し自らは局長となりました。戊辰戦争では幕府軍として各地を転戦しますが、新政府軍に捕縛され処刑されています。天寧寺には土方歳三が遺体の一部が葬られています。
近藤勇:墓碑(お墓)
【 人物名:小笠原長時 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大龍寺 】
埋葬者 ・小笠原長時
名 称 ・大龍寺
所在地 ・島県会津若松市慶山2丁目
法 名 ・長時院殿
没 年 ・天正11年=1583年
年 齢 ・70歳
備 考
歴 史
略 歴
小笠原長時は永正11年に小笠原長棟と浦野弾正忠の娘との子供として生まれました。大永6年に元服し、天文10年に長棟の出家に伴い家督を継ぎ信濃国守護を就任しています。武田信玄の信濃侵攻が大名家からは没落し、上杉家や織田家を経て蘆名氏の客分となっています。
小笠原長時:墓碑(お墓)
【 人物名:山本家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大龍寺 】
埋葬者 ・山本家
名 称 ・大龍寺
所在地 ・島県会津若松市慶山2丁目
備 考 ・山本家の祖は武田信玄の軍師を務めた山本勘助とも云われています。その後裔とされる遠州流の茶師山本道珍が高遠藩の藩主だった保科正之に仕官し、その次男の系統が会津藩松平家に代々兵学者として仕えました。左兵衛の代に砲術師範を拝命、山本覚馬は洋式砲術の研究を深め会津藩の洋式化に尽力しています。妹の八重も兄の影響を受け洋式小銃を操作出来たとされ会津城に立て籠もり新政府軍に応戦しています。大龍寺の山本家の墓域の多くが八重が晩年整備したものです。
山本家:墓碑(お墓)

【 人物名:丹羽能教 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:小田山 】
埋葬者 ・丹羽能教
名 称 ・小田山
所在地 ・福島県会津若松市門田町黒岩主山丙
没 年 ・天正14年=1843年
年 齢 ・78歳
備 考 ・丹羽能教は明和3に生まれ家庭の不幸から安永4年に僅か10歳で丹羽家の家督を継ぎました。幼少期から学問や武道に励み天明8年には番頭組頭に抜擢され会津藩の藩政改革に尽力しています。寛政9年には家老組頭、その後、松平容住の用人、松平容衆代には軍事奉行となり、文政2年には家老となり石高も1千石となっています。
丹羽能教:墓碑(お墓)
【 人物名:田中玄宰 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:小田山 】
埋葬者 ・田中玄宰
名 称 ・小田山
所在地 ・福島県会津若松市門田町黒岩主山丙
法 名
没 年 ・文化5年=1808年
年 齢 ・61歳
備 考
歴 史
略 歴
田中玄宰は寛延元年に田中玄興の子供として生まれました。12歳で田中家の家督を継ぎ天明元年に家老に就任、天明の大飢饉際には藩政改革を上申したものの採用されなかった事から責任を取り家老職を辞任しています。天明5年に家老に再任されると、今度は改革案が採用され、日新館を創設するなど人材育成にも尽力しています。
田中玄宰:墓碑(お墓)
【 人物名:皆鶴姫 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:皆鶴姫の碑群 】
埋葬者 ・皆鶴姫
名 称 ・皆鶴姫の碑群
所在地 ・福島県会津若松市河東町倉橋字藤倉
年 齢 ・18歳
備 考 皆鶴姫は吉岡鬼一法眼の養女とされ、吉岡鬼一法眼の兵法書を見る為に源義経が皆鶴姫が近づき兵法書を盗み出させたようです。義経は兵法書を書き写すと皆鶴姫を捨てて平泉に下向、皆鶴姫は義経を追いかけたものの、平家の追討を受け二人の子供 帽子丸は捕縛され沼に顔を押し付けられ溺死、自身も諦め自刃しています。近くにいた義経がこの話を聞くと余りにも哀れだった事から墓碑を建立し篤く弔ったと伝えられています。
皆鶴姫:墓碑(お墓)を撮影した画像

【 人物名:斎藤一(藤田五郎) 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:阿弥陀寺 】
埋葬者 ・斎藤一(藤田五郎)
名 称 阿弥陀寺
所在地 ・福島県会津若松市七日町4丁目
没 年 ・大正4年=1915年
年 齢 ・71歳
備 考 ・斎藤一は天保15年に山口右助と ますとの第三子として生まれました。その後、吉田道場の師範代を務めるなど剣術を磨き、文久3年に壬生浪士組に入隊、新選組では副長助勤に抜擢され後に三番組組長、撃剣師範にもなっています。戊辰戦争や会津戦争に参加し、会津藩が敗北すると斗南藩士として同行、斗南藩が廃藩になると警察官として西南戦争にも参加しています。
斎藤一(藤田五郎):墓碑(お墓)
【 人物名:16代蘆名盛氏 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:葦名家花見ヶ森廟 】
埋葬者 ・16代蘆名盛氏
名 称 ・葦名家花見ヶ森廟
所在地 ・福島県会津若松市花見ヶ丘2丁目
没 年 ・天正8年=1580年
年 齢 ・60歳
備 考 ・蘆名盛氏は大永元年に蘆名盛舜の子供として生まれ、天文10に蘆名家第16代当主に就任しています。盛氏は周辺地域に積極策を展開し仙道(中通り)の田村氏や岩瀬郡の二階堂氏などに進出し天正2年には傘下に収めています。子宝には恵まれず嫡男である盛興が死去すると男子がおらず二階堂盛義の子供である盛隆を養子として家督を継がせています。
16代芦名盛氏:墓碑(お墓)
【 人物名:17代蘆名盛興 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:葦名家花見ヶ森廟 】
埋葬者 ・17代蘆名盛興
名 称 ・葦名家花見ヶ森廟
所在地 ・福島県会津若松市花見ヶ丘2丁目
没 年 ・天正2年=1574年
年 齢 ・27歳
備 考 ・蘆名盛興は天文16年に蘆名盛氏と伊達稙宗の娘との嫡男として生まれました。永禄4年に蘆名家17代当主に就任し、盛氏と共に周辺大名に対して積極策を遂行し多くの戦に従軍しています。天正2年に病死、嫡男が居なかった為、盛氏は二階堂盛義の子供である盛隆を養子として家督を継がせています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
17代蘆名盛興:墓碑(お墓)
【 人物名:18代蘆名盛隆 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:葦名家花見ヶ森廟 】
埋葬者 ・18代蘆名盛隆
名 称 ・葦名家花見ヶ森廟
所在地 ・福島県会津若松市花見ヶ丘2丁目
没 年 ・天正12年=1584年
年 齢 ・24歳
備 考
歴 史
略 歴
・蘆名盛隆は永禄4年に二階堂盛義と阿南姫(伊達晴宗の娘)との長男として生まれました。永禄8年に蘆名盛氏が二階堂家を従属した事に伴い人質として会津に送られたものの、天正3年に蘆名盛興が跡継ぎが無いままに病死した事から、急遽盛氏の養子となり蘆名家18代当主に就任しています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
18代蘆名盛隆:墓碑(お墓)

【 人物名:長沼盛秀 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:徳昌寺 】
埋葬者 ・長沼盛秀
名 称 ・徳昌寺
所在地 ・福島県南会津郡南会津町田島字寺前甲
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・長沼盛秀は鴫山城を居城とし南山地方を支配した国人領主で会津四家に数えられました。蘆名家に従ったものの、天正17年の摺上原の戦いで蘆名家が伊達政宗に敗れて会津を去ると、盛秀は伊達家に転じます。その後、伊達家の後ろ盾により奥会津統一を目論見ましたが小田原の役に参陣しなかった事から改易となっています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
長沼盛秀:墓碑(お墓)
【 人物名:室井杢左ヱ門 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:徳昌寺 】
埋葬者 ・室井杢左ヱ門
名 称 ・徳昌寺
所在地 ・福島県南会津郡南会津町田島字寺前甲
法 名
没 年 ・万治2年
備 考
歴 史
略 歴
・室井氏は中世長く当地を支配した長沼氏の家臣だった家柄で、室井杢左ヱ門は引き続き支配層として田島宿の検断職を担いました。検断職は宿場内の警察権、裁判権を所有する一方、住民達に便宜を図った事から大変感謝されたとされます。五輪塔は当地の実力者で杢左ヱ門の実家でもある猪俣家により建立されています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
室井杢左ヱ門:墓碑(お墓)
【 人物名:寿林方 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:徳昌寺 】
埋葬者 ・寿林方
名 称 ・徳昌寺
所在地 ・福島県南会津郡南会津町田島字寺前甲
法 名 ・観譽壽林大姉霊位
没 年 ・延宝7年=1676年
年 齢 ・84歳
備 考
歴 史
略 歴
・寿林方は黒田与右衛門の娘で会津藩の筆頭家老堀主水の正室だった人物です。堀主水は藩主加藤明成との対立で身の危険を感じ、鶴ヶ城に鉄砲を放ち出奔、寿林方は鎌倉の東慶寺に身を隠しました。堀主水が捕縛されると弟で会津西街道の宿場町である田島宿の田島検断 黒川貞得に預けられ、当地で生涯を全うしています。
寿林方:墓碑(お墓)
【 人物名:佐原義連 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:佐原義連の墓 】
埋葬者 ・佐原義連
名 称 ・佐原義連の墓
所在地 ・福島県喜多方市熱塩加納町宮川字墓の西
没 年 ・建久3年又は建仁3年又は承久3年
年 齢 ・75歳又は78歳又は82歳
備 考
歴 史
略 歴
佐原義連は三浦義明の子供で相模国衣笠城の東南に位置する佐原城を居城とした事から「佐原」姓を掲げたとされます。治承4年に源頼朝が挙兵するとこれに従い源平合戦に従軍しています。奥州合戦でも戦功を挙げ陸奥国会津四郡が与えられています。その後、一族が会津に入り蘆名家を成立させています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
佐原義連:墓碑(お墓)

【 人物名:丹羽長重 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:丹羽長重公霊廟 】
埋葬者 ・丹羽長重
名 称 ・丹羽長重公霊廟
所在地 ・福島県白河市円明寺
法 名 ・大隣寺殿前参議三品傑俊浄英大居士
没 年 ・寛永14年=1637年
年 齢 ・67歳
備 考
歴 史
略 歴
・丹羽長重は元亀2年に丹羽長秀と桂峯院(織田信長の養女)との長男として生まれました。天正13年、長秀の死去に伴い家督と遺領である123万石を継ぎましたが、難癖を付けられ4万石にまで激減、さらに関ヶ原合戦で改易になったものの常陸古渡1万石で復権し棚倉藩5万石を経て白河藩10万石に加増されています。
丹羽長重:墓碑(お墓)
【 人物名:結城宗広 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:白川城 】
埋葬者 ・結城宗広
名 称 ・白川城
所在地 ・福島県白河市藤沢山
没 年 ・延元3年/暦応元年=1339年
年 齢 ・73歳
備 考
歴 史
略 歴
・結城宗広は文永3年に結城祐広と熱田範広の娘との子供として生まれました。討幕運動に参加した事で後醍醐天皇に信任され、南朝の有力武将として各地を転戦しています。義良親王を奉じて伊勢国から再起を図りましたが病死しています。居城である白川城の城跡には宗広の供養塔が建立されています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
結城宗広:墓碑(お墓)
【 人物名:相楽等躬 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:長松院 】
埋葬者 ・相楽等躬
名 称 ・長松院
所在地 ・福島県須賀川市諏訪町
没 年 ・正徳5年=1715年
年 齢 ・78歳
備 考
歴 史
略 歴
相楽等躬は白河藩の郷士で奥州街道の宿場町である須賀川宿で問屋兼駅長を担いました。江戸の俳人「未得」や「岸本調和」に俳諧学び松尾芭蕉とも交流があった事から奥の細道で芭蕉が須賀川宿を通過した際には相楽等躬邸で一週間も滞在していました。晩年は平城の城主内藤露沾と親交があり平城で客死しています。
・墓石の形状・種類:和型墓石
相楽等躬:墓碑(お墓)
【 人物名:保科正之 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:土津神社 】
埋葬者 ・保科正之
名 称 土津神社
所在地 ・福島県耶麻郡猪苗代町見祢山
神 号 ・土津霊神
没 年 ・寛文12年=1673年
年 齢 ・63歳
備 考
歴 史
略 歴
保科正之は慶長16年に徳川秀忠と静(浄光院)との子供として生まれました。見性院に養育され高遠藩主保科正光の養子となり寛永8年に高遠藩主に就任しています。寛永13年に山形藩20万石に加増移封となり、さらに寛永20年に会津藩23万石の藩主に就任しています。
保科正之:墓碑(お墓)

【 人物名:松平家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:会津藩主松平家墓所 】
埋葬者 ・松平家
名 称 会津藩主松平家墓所
所在地 ・福島県会津若松市東山町
概 要 ・松平家は神道だった事から墓域も2代藩主保科正経以外は神式で構成されています。
備 考 ・2代正経−没年:天和元年・36歳・鳳朔院
・3代正容−没年:享保16年・63歳・徳翁霊神
・4代容貞−没年:寛延3年・27歳・土常霊神
・5代容頌−没年:文化2年・62歳・恭定霊神
・6代容住−没年:文化12年・28歳・貞昭霊神
・7代容衆−没年:文政5年・20歳・欽文霊神
・8代容敬−没年:嘉永5年・47歳・忠恭霊神
・9代容保−没年:明治26年・58歳・忠誠霊神
松平家:墓碑(お墓)
【 人物名:白虎隊 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:飯森山 】
埋葬者 ・白虎隊
名 称 ・飯森山
所在地 ・福島県会津若松市飯森山
概 要 ・会津戦争では会津藩は総力戦となり少年兵も最前線に送り込まざるを得なくなり、白虎隊が発足。戸ノ口原の戦いで敗北すると飯森山まで後退、そこから鶴ヶ城が炎上していると思い込み自刃しています。
備 考 ・安達藤三郎・有賀織之助・池上新太郎・石田和助・石山虎之助・伊東悌次郎・伊藤俊彦・井深茂太郎・篠田儀三郎・鈴木源吉・津川喜代美・津田捨蔵・永瀬雄次・西川勝太郎・野村駒四郎・林八十治・間瀬源七郎・簗瀬勝三郎・簗瀬武治。
白虎隊:墓碑(お墓)
【 人物名:小野小町 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:小野小町塚 】
埋葬者 ・小野小町
名 称 ・小野小町塚
所在地 ・福島県喜多方市高郷
神 号
没 年 ・−
備 考
歴 史
略 歴
・伝承によると、平安時代のある年の晩秋の夕暮れ時に一人の老女が宿を求めたので、身の上話を聞いてみると、その老女は小野小町で都で暇をもらい故郷である出羽国に帰る途中との事、暫く滞在すると重い病を患い、看病むなしく当地で没したと伝えられています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
小野小町:墓碑(お墓)

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