棲雲寺(武田信満:菩提寺)

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棲雲寺:画像

概 要
菩 提 者
・武田信満(棲雲寺殿明庵公大居士)
寺 号
・棲雲寺
所 在 地
・山梨県甲州市大和町木賊
創 建 年
・貞和4年(1348)
開  山
・業海本浄
開  基
・武田家
山  号
・天目山
宗  派
・臨済宗建長寺派
本  尊
・釈迦如来
備  考
歴  史
略  歴
・武田信満の墓碑(甲州市指定史跡)

【 武田信満 】−武田信満は室町時代に武田信春の子供として生れましたが、正確な生年月日や母親の名前等はまだ判っていません。武田信春は甲斐武田家の惣領を引き継いだ人物で、足利尊氏の近習として重きを成しましたが、応永20年に甲斐国で乱が発生したようで、守護所が置かれていた千野館(武田信春館)を放棄し萩原山に一端回避、柳沢に砦を築き反転攻勢の準備している最中に死去しています。

信満はそのような中に家督を相続し、甲斐国の乱をどの様に鎮めたのかは記録がありませんが、続きざまに応永23年に上杉禅秀の乱が発生しその対処に追われています。

上杉禅秀の乱はで鎌倉公方の足利持氏と前関東管領の上杉氏憲(禅秀)の対立で、甲斐国は室町幕府足利将軍が関東10か国を統治する為に設置された鎌倉府の管轄下に置かれ、鎌倉公方は鎌倉府の長官である事から、甲斐国の守護職だった武田信満は本来、足利持氏を支持する立場にありました。

しかし、信満の娘が上杉氏憲(禅秀)に嫁いでいた事から、義理の父親として千葉介兼胤等と共に反乱に加担する事になりました。

応永24年に氏憲(禅秀)が敗北し鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊で自刃に追い込まれると掃討戦が行われ、足利持氏に与した上杉憲宗が甲斐国に派兵されました。

信満は都留郡で憲宗の軍を迎え撃ちましたが大敗を喫し山梨郡木賊山(東山梨郡大和村)で自刃、これにより甲斐武田家惣領家は一時没落し、足利持氏に加担したと思われる一族の逸見氏が台頭しました。

山梨県の歴史上の人物の御墓
動  画
・武田信満の菩提寺である栖雲寺の歴史を短く纏めた動画 ・山梨県甲府市の歴史を短く纏めた動画

栖雲寺:案内図

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