竹村道清

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竹村道清
竹村道清
・竹村道清は永禄4年(1561)、大和国竹内村を本貫とする竹村与吉兵衛の長男として生まれています。元亀元年(1570)、細井戸城が松永方の箸尾氏に攻められ落城した際に与吉兵衛が討死した為、まだ幼少だった事から徳川家康の命もあり、弟の竹村嘉理と隔年で織田信長の安土城に人質として赴いています。

天正10年(1582)に発生した本能寺の変の際には徳川家康の伊賀越えに助力した事で嘉理と共に直参の家臣に採用されています。慶長8年(1603)に家康の命により知恩院再建普請奉行を担っていた際、同じく家康の命で崇泰院(京都市東山区)を創建、院号は竹村道清の法名「崇泰院勝誉道清居士」に因むもので開基者となっています(崇泰院は家康の生母である伝通院の菩提寺として創建された)。

その後、石見銀山初代銀山奉行大久保石見守長安の下で役人として尽力、慶長18年(1613)に長安の死去に伴い2代銀山奉行に就任し1000石を与えられています(嘉理は佐渡奉行に就任)。竹村道清は山吹城の城下町にあった代官所(吉迫陣屋)を大森地区に遷し大森奉行所を開設、谷川(銀山川)沿いに町割りを行い現在の大森の基礎を築きました。

又、知恩院再建普請奉行を担っていた縁で、知恩院の大僧正を務めた日誉上人を招いて勝源寺を創建し自らの菩提寺としています。

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