静岡県の歴史上の人物の御墓

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【 人物名:曽我十郎祐成・五郎時致 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:曽我寺 】
埋葬者 ・曽我十郎祐成・五郎時致
名 称 ・曽我寺
所在地 ・静岡県富士市久沢
没 年 ・建久4年=1193年
備 考
歴 史
略 歴
・曽我十郎祐成、五郎時致兄弟は伊豆国伊東を本貫とする伊東祐親の嫡男河津祐泰の子供として生まれました。伊東祐親と敵対する工藤祐経が刺客を放し祐親を暗殺しようとした際、一緒に居た河津祐泰が刺殺されました。祐泰の妻は曾我祐信と再婚したものの、兄弟は恨みを忘れず建久4年に富士の巻狩りで源頼朝に随行していた工藤祐経に対して敵討ちを完遂しています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
曽我十郎祐成・五郎時致:墓碑(お墓)
【 人物名:織田信長(首塚) 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:西山本門寺 】
埋葬者 ・織田信長(首塚)
名 称 ・西山本門寺
所在地 ・静岡県富士宮市西山
法 名 ・総見院殿贈大相国一品泰巌大居士など
没 年 ・天正10年=1582年
年 齢 ・49歳
備 考
歴 史
略 歴
・西山本門寺に伝わる伝承によると、本能寺の変で自ら命のを絶った信長の首を本因坊日海が密かに原志摩守宗安に命じて持ち出させ、明智方に見つからないように西山本門寺の境内に埋め、目印として柊を植えたと伝えられています。
・墓石の形状・種類:霊廟、墳丘墓
織田信長(首塚):墓碑(お墓)
【 人物名:井伊直勝 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:可睡斎 】
埋葬者 ・井伊直勝
名 称 ・可睡斎・可睡斎の画像と案内図
所在地 ・静岡県袋井市久能
法 名 ・雲江院殿月山了照大居士
没 年 ・寛文2年=1662年
年 齢 ・73歳
備 考
歴 史
略 歴
・井伊直勝は徳川四天王に数えられた井伊直政の長男で将来を嘱望されていましたが、家中のごたごたと弟である井伊直孝との家督争いに敗れ、彦根藩主から引きずり降ろされ上、記録からも初代藩主だった実績が削除されました。その後は安中藩の藩主に就任し寛永9年に隠居しています。
井伊直勝:墓碑(お墓)
【 人物名:成瀬藤蔵正義 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:宗源院 】
埋葬者 ・成瀬藤蔵正義
名 称 ・宗源院
所在地 ・静岡県浜松市中区蜆塚1丁目
没 年 ・元亀3年=1573年
年 齢 ・38歳
備 考
歴 史
略 歴
・成瀬正義は成瀬正頼の長男として生まれました。家督を継いだ以降は徳川家康に従い、箕作城攻めや姉川の戦いなど多くの戦に従軍に功を挙げています。元亀3年に発生した三方ヶ原の戦いでは旗奉行として家康本陣の守備を担当し、武田方の馬場信春が本陣に突入した際に家康の身代わりになって討死したとされます。
・墓石の形状・種類:五輪塔
成瀬藤蔵正義:墓碑(お墓)
【 人物名:多世姫 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:宗源院 】
埋葬者 ・多世姫
名 称 ・宗源院
所在地 ・静岡県浜松市中区蜆塚1丁目
法 名 ・芳春院殿梅印智光大姉
没 年 ・享保16年=1731年
年 齢 ・18歳
備 考
歴 史
略 歴
・多世(多代)姫は、松平信祝の娘として生まれました。肥前国平戸藩の第7代藩主松浦有信の正室として嫁ぎましたが享保13年に有信が平戸城で死去し嗣子が無く、弟の誠信を養嗣子として後を継がせた事から実家の松平家に戻ったようです。享保14年に信祝に従い浜松城に入りましたが享保16年に死去し宗源院に葬られています。
多世姫:墓碑(お墓)

【 人物名:千代子夫人 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:宗源院 】
埋葬者 ・千代子夫人(小笠原源太夫正室)
名 称 ・宗源院
所在地 ・静岡県浜松市中区蜆塚1丁目
備 考 ・浜松城の奉行を担った小笠原源太夫基長の正室。小笠原基長については浜松藩主松平資俊・松平資訓の2代に仕え、特に享保年間に松嶋・福嶋・西嶋・江之嶋・鶴嶋の五か村の懇願で資俊の命により作事奉行として開削した源太夫堀が有名です。源太夫堀により開発された新田は五十余町歩とも云われ、守護神として小笠原家の祖神である新羅大明神を勧請し新羅神社を創建しています。又、祖先が大旦那として創建した明音寺に歴代当主の位牌を奉納し追善供養を行っています。
千代子夫人(小笠原源太夫):墓碑(お墓)
【 人物名:外山小作正重・遠藤右近 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:宗源院 】
埋葬者 ・外山小作正重・遠藤右近
名 称 ・宗源院
所在地 ・静岡県浜松市中区蜆塚1丁目
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・外山小作正重は徳川家の家臣で三方原合戦の際に旗手を担ったものの討死しています。遠藤右近も徳川家の家臣で三方原合戦で討死しています。
・墓石の形状・種類:自然石、和型墓石(角兜巾型)
外山小作正重・遠藤右近:墓碑(お墓)
【 人物名:築山御前 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:西来院 】
埋葬者 ・築山御前
名 称 ・西来院
所在地 ・静岡県浜松市中区広沢2丁目
法 名 ・西来院殿政岩秀貞大姉
没 年 ・天正7年=1579年
年 齢 ・38歳
備 考
歴 史
略 歴
・築山御前は詳細は不明ですが今川家一族出身で、徳川家康の正室として嫁ぎました。桶狭間の戦い以降、家康は今川家から独立し敵対していた織田信長と同盟を結んだ為、築山御前との仲が冷えていったとされます。その後、息子である松平信康と謀反を画策、それが露呈し殺害されたとされます。西来院の画像と案内図
築山御前:墓碑(お墓)
【 人物名:良純親皇 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大見寺 】
埋葬者 ・良純親皇
名 称 ・大見寺
所在地 ・静岡県磐田市見付
没 年 ・寛文9年=1669年
年 齢 ・67歳
備 考
歴 史
略 歴
・良純入道親王は後陽成天皇の第8皇子で徳川家康の猶子になる一方で満誉尊照を戒師として出家しています。待遇や地位の不満から幕府や朝廷を批判した事から甲斐国に一時流されています。大見寺11世呑誉禿翁は良純親皇の弟子だった事から分骨を賜り供養塔を建立しています。
・墓石の形状・種類:無縫塔
良純親皇:墓碑(お墓)
【 人物名:今川範国 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:福王寺 】
埋葬者 ・今川範国
名 称 ・福王寺
所在地 ・静岡県磐田市城之崎
法 名 ・定光寺殿悟庵心省大禅定門
没 年 ・至徳元年=1384年
年 齢 ・87歳
備 考
歴 史
略 歴
・今川範国は今川基氏の五男として生まれ、南北朝時代には同族である足利尊氏に従い各地で転戦し、その功績が評価され遠江国と駿河国の守護職に任命されています。その後も室町幕府の引付頭人などの要職を歴任し重きを成しています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
福王寺の画像と案内図
今川範国:墓碑(お墓)

【 人物名:上杉龍若丸 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:最勝院 】
埋葬者 ・上杉龍若丸
名 称 ・最勝院
所在地 ・静岡県伊豆市宮上
没 年 ・天文20年=1551年
年 齢 ・13歳
備 考
歴 史
略 歴
・上杉龍若丸は関東管領上杉憲政の嫡子として生まれました。天文21年に北条氏康の侵攻により憲政は居城である平井城を放棄し長尾景虎を頼り越後に逃れました。最勝院に伝わる伝承によると龍若丸は人質として北条方に移送中に逃亡し湯ヶ島の東原で追手に追いつかれ自刃したと伝えられています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
上杉龍若丸:墓碑(お墓)
【 人物名:大見平三家政 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:実成寺 】
埋葬者 ・大見平三家政
名 称 ・実成寺
所在地 ・静岡県伊豆市柳瀬
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・大見平三家政は大見氏の祖とされる人物で、源頼朝の挙兵に参陣しています。又、保元物語に見られる大見平次家秀の父親とされ、娘は伊東祐隆の正室として祐親・祐継・茂光の生母となっています。家政の墳墓は大見塚と呼ばれ中伊豆中学校グラウンド付近にありましたが、実成寺の境内に遷されています。
・墓石の形状・種類:石祠
大見平三家政:墓碑(お墓)
【 人物名:北条時頼 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:最明寺 】
埋葬者 ・北条時頼
名 称 ・最明寺
所在地 ・静岡県伊豆の国市長岡
法 名 ・覚了房道崇
没 年 ・弘長3年=1263年
年 齢 ・37歳
備 考
歴 史
略 歴
・北条時頼は北条時氏の次男として生まれ、寛元4年に鎌倉幕府第5代執権に就任しています。積極的に庶民を保護した事から、民衆からは支持されたとみられ、当地では恩を受けた住民達が幕府に懇願し時頼の分骨を賜ると祖の菩提寺として最明寺を創建し墓碑が建立されています。
北条時頼:墓碑(お墓)
【 人物名:江川家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:本立寺 】
埋葬者 ・江川家
名 称 ・本立寺
所在地 ・静岡県伊豆の国市韮山金谷
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・江川家は大和源氏の流れを汲むとされ、当初は大和国宇智郡宇野荘を本貫とした為、宇野姓を掲げました。宇野親信の代で江川荘に移住し源頼朝の旗揚げに協力した事から所領を安堵されています。戦国時代以降徳川家に従い、江戸時代には世襲代官となり、幕末には江川英龍を輩出し国内の近代化に大きく寄与しています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
江川家
【 人物名:徳川家光 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:龍華院大猷院霊屋 】
埋葬者 ・徳川家光
名 称 ・龍華院大猷院霊屋
所在地 ・静岡県掛川市掛川
法 名 ・大猷院殿贈正一位大相国公
没 年 ・慶安4年=1651年
年 齢 ・48歳
備 考
歴 史
略 歴
・龍華院大猷院霊屋を創建した北条氏重は5人の子供を得たものの何れも女子だった事から、万治元年に落馬により死去すると跡継ぎが無く断絶しています。その事を危惧した事からか、幕府から好感を得る為に徳川家光の霊廟を設けたとも云われています。
徳川家光:墓碑(お墓)

【 人物名:三代目尾上菊五郎 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:広楽寺 】
埋葬者 ・三代目尾上菊五郎
名 称 ・広楽寺
所在地 ・静岡県掛川市中央2丁目
法 名 ・榮松院菊寶梅寒
没 年 ・嘉永2年=1849年
年 齢 ・66歳
備 考
歴 史
略 歴
・江戸小伝馬町の建具屋仙次郎の子供として生まれ、血筋では無かったものの幼少の頃から才能を見出され初代尾上松助の養子となっています。文化6年に二代目松助を襲名、文化12年には菊五郎の名跡を復活し三代目を襲名しています。掛川宿の揉金屋治右衛門宅で亡くなった縁で広楽寺に墓碑が建立されています。
三代目尾上菊五郎:墓碑(お墓)
【 人物名:一柳直末 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:宗閑寺 】
埋葬者 ・一柳直末
名 称 ・宗閑寺
所在地 ・静岡県三島市山中新田
法 名 ・大通院殿前豆州太守天叟長運大禅定門
没 年 ・天正18年=1590年
年 齢 ・45歳
備 考
歴 史
略 歴
・一柳直末は天文15年に一柳直高の子供として生まれました。青年期から羽柴秀吉に従い各地に従軍して功績を挙げ地位を確立しています。天正13年に大垣城の城主3万石、天正17年に軽海西城の城主6万石と出世を重ねましたが、天正18年に山中城攻防戦で間宮康俊隊の銃弾により討死しています。
一柳直末:墓碑(お墓)
【 人物名:松田康長 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:宗閑寺 】
埋葬者 ・松田康長
名 称 ・宗閑寺
所在地 ・静岡県三島市山中新田
没 年 ・天正18年=1590年
年 齢 ・54歳
備 考
歴 史
略 歴
・松田康長は松田康定の子供として生まれ、小田原北条氏の家臣として奏者や奉行衆などの要職を歴任しています。天正15年から山中城の拡張整備の作事事業を担当し、天正17年には山中城の城主に就任しています。天正18年の豊臣秀次を主力とする豊臣軍7万が山中城に侵攻、半日で落城し討死しています。
・墓石の形状・種類:和型墓石(角柱型)
松田康長:墓碑(お墓)
【 人物名:間宮康俊兄弟 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:宗閑寺 】
埋葬者 ・間宮康俊兄弟
名 称 ・宗閑寺
所在地 ・静岡県三島市山中新田
没 年 ・天正18年=1590年
年 齢 ・73歳
備 考 ・間宮康俊は間宮信元の子供として生まれました。間宮家は代々小田原北条氏に従った為、康俊も玉縄城の城主として配された北条一族に仕えています。鶴岡八幡宮の造営工事や江戸湾岸の監視警備、伊豆衆の水軍を管理などを担っています。天正18年の豊臣秀吉による小田原合戦では、副将格として山中城に入り、激戦の末一柳直末を討ち取るも最後は敵中に切り込み討死しています。
間宮康俊兄弟:墓碑(お墓)
【 人物名:北条新三郎氏信 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:祐泉寺 】
埋葬者 ・北条新三郎氏信
名 称 ・祐泉寺
所在地 ・静岡県三島市大社町5丁目
法 名 ・三光院殿孝誉良玄大居士
没 年 ・永禄12年=1569年
備 考
歴 史
略 歴
・北条氏信は北条幻庵の次男として生まれました。長男が早世した事から永禄3年に家督を継ぎ、永禄6年には小机城に赴任、武田信玄による駿河侵攻の際には蒲原城の城将を担っています。永禄12年に再び武田軍が来襲した際、籠城戦を挑むものの落城し氏信も討死しています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
北条新三郎氏信:墓碑(お墓)

【 人物名:白隠禅師 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:松蔭寺 】
埋葬者 ・白隠禅師
名 称 ・松蔭寺
所在地 ・静岡県沼津市原字東畑
没 年 ・明和5年=1768年
年 齢 ・82歳
備 考
歴 史
略 歴
・白隠禅師は名僧として知られ、全国各地で修行を重ね生涯に三六回の悟りを開いたとも云われています。多くの弟子を育て彼らが様々な宗派を立て事から臨済宗中興の祖と称され「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と謡われました。
・墓石の形状・種類:石祠
白隠禅師:墓碑(お墓)
【 人物名:若山牧水 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:乗運寺 】
埋葬者 ・若山牧水
名 称 ・乗運寺
所在地 ・静岡県沼津市本字出口町
法 名 ・古松院仙誉牧水居士
没 年 ・昭和3年=1928年
年 齢 ・43歳
備 考
歴 史
略 歴
・若山牧水は戦前の歌人で、宮崎県東臼杵郡東郷村で医師を生業としていた若山立蔵の長男として生まれました。早稲田大学英文学科卒業後に海の声を出版、明治44年に創作社を創業して詩歌雑誌「創作」を主宰してます。大正9年に沼津に移り住み大正15年に詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊しています。
若山牧水:墓碑(お墓)
【 人物名:大須賀康高・大須賀忠政 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:撰要寺 】
埋葬者 ・大須賀康高・大須賀忠政
名 称 ・撰要寺
所在地 ・静岡県掛川市山崎
法 名 ・忠政:花馨院殿泰誉岩捜安大居士
没 年 ・康高:天正17年=1589年
没 年 ・忠政:慶長12年=1607年
年 齢 ・康高:63歳
年 齢 ・忠政:27歳
備 考 ・大須賀康高は徳川家康の譜代の家臣で、特に高天神城攻防戦で功績を挙げ、その際築いた横須賀城の城主となっています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
大須賀康高・大須賀忠政:墓碑(お墓)
【 人物名:井上正就 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:本源寺 】
埋葬者 ・井上正就
名 称 ・本源寺
所在地 ・静岡県掛川市西大渕
法 名 ・忠源院殿隆昌日操大居士
没 年 ・寛永5年=1628年
年 齢 ・51歳
備 考
歴 史
略 歴
・井上正就は井上清秀の三男として生まれ、幼少期から徳川秀忠の近習として仕えています。慶長20年に小姓組番頭に就任、元和8年に横須賀藩5万2千2百石の藩主となり、同時期に老中に抜擢されています。嫡男正利の縁談でトラブルとなり豊島信満に江戸城西の丸廊下で刺殺されています。
井上正就:墓碑(お墓)
【 人物名:今川範氏 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:慶寿寺 】
埋葬者 ・今川範氏
名 称 ・慶寿寺
所在地 ・静岡県島田市大草
法 名 ・慶寿寺殿雲峰信慶大禅定門
没 年 ・貞治4年=1365年
年 齢 ・50歳
備 考
歴 史
略 歴
・今川範氏は正和5年(1316)に今川範国の嫡男として生まれました。観応3年(1352)に今川館に居城を移し、文和2年(1353)に今川家の家督を譲られています。足利尊氏に従い大功を挙げ駿河国、遠江国の守護職を任せられています。菩提寺である慶寿寺を創建し墓碑が建立されています。慶寿寺の画像と案内図
今川範氏:墓碑(お墓)

【 人物名:大野九郎兵衛知房 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:慶寿寺 】
埋葬者 ・大野九郎兵衛知房
名 称 ・慶寿寺
所在地 ・静岡県島田市大草
法 名 ・幽玄院真岩猶夢居士など
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・大野知房は赤穂藩浅野家の家老だった人物で、赤穂事件の際には大石内蔵助と対立し出奔したと云われています。この行為は後世の民衆から裏切り行為と捉えられ著しく低く評価されています。その後の足取りは不詳ですが、何故か慶寿寺の境内には大野知房の墓碑と伝わる五輪塔が建立されています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
大野九郎兵衛知房:墓碑(お墓)
【 人物名:米露黒船乗員 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:玉泉寺 】
埋葬者 ・米露黒船乗員
名 称 ・玉泉寺
所在地 ・静岡県下田市柿崎
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・玉泉寺は安政元年に締結された下田追加条約によりアメリカ合衆国の休息所に指定されました。これにより安政3年にはアメリカ総領事タウンゼント・ハリスの居住地、事実上の総領事館となりました。その関係から境内には日本で亡くなった米露黒船乗員の墓碑が建立され、国指定史跡に指定されています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
米露黒船乗員:墓碑(お墓)
【 人物名:今村正長・今村正成・今村正信 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:了仙寺 】
埋葬者 ・今村正長・今村正成・今村正信・正長の妻
名 称 ・了仙寺
所在地 ・静岡県下田市三丁目
没 年 正長:承応2年=1653年
年 齢 正長:66歳
備 考
歴 史
略 歴
・今村正長は天正16年に今村重長の子供として生まれました。父親と共に2代将軍徳川秀忠に従い大坂の陣でも戦功を挙げ、家康から御羽織を賜っています。寛永4年に家督を継ぎ下田奉行に就任、寛永20年から武ケ浜波よけ堤防を計画し、海運の御番所の設置や廻船問屋の創設など下田発展に尽力しています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
今村正長・今村正成・今村正信・正長の妻:墓碑(お墓)
【 人物名:源応尼 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:華陽院 】
埋葬者 ・源応尼
名 称 ・華陽院
所在地 ・静岡市葵区鷹匠二丁目
法 名 ・華陽院殿玉桂慈仙大禅尼
没 年 ・永禄3年=1560年
年 齢 ・68歳
備 考
歴 史
略 歴
・源応尼は明応元年に生まれましたが、親については諸説有不詳。その後、水野忠政に嫁いで徳川家康の実母である於大の方を生んでいます。相当の美人で複数人の土豪と再婚を繰り替えしています。その後、今川義元を頼って駿府に入りし人質だった竹千代(家康)を8年間養育しています。
華陽院の画像と案内図
源応尼:墓碑(お墓)
【 人物名:市姫 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:華陽院 】
埋葬者 ・市姫
名 称 ・華陽院
所在地 ・静岡市葵区鷹匠二丁目
法 名 ・一照院殿圓芳功心大清女
没 年 ・慶長15年=1610年
年 齢 ・4歳
備 考 ・市姫は慶長12年(1607)、徳川家康66歳時に側室英勝院の娘(家康から見ると5女)として生まれました。仙台藩主伊達政宗の嫡男である虎菊丸と婚約しましたが、輿入れ前の慶長15年に死去しています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
市姫

【 人物名:安藤直之・安藤広栄・松平信之 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:華陽院 】
埋葬者 ・安藤直之・安藤広栄・松平信之
名 称 ・華陽院
所在地 ・静岡市葵区鷹匠二丁目
法 名 直之:源樹院殿直誉騰山誼純大居士
没 年 ・直之:文化2年=1805年
年 齢 ・直之:64歳
備 考
歴 史
略 歴
・安藤直之は浜松藩主松平信祝の五男として生まれました。当初は高崎藩主松平輝高の養子となりましたが、実子が無事に成長した事から解消となりました。明和3年に旗本安藤直元の養子となり明和6年に家督を継いでいます。文化2年に駿府城の城代に就任、同年に病死しています。
安藤直之・安藤広栄・松平信之:墓碑(お墓)
【 人物名:旭姫 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:瑞龍寺 】
埋葬者 ・旭姫
名 称 ・瑞龍寺
所在地 ・静岡県静岡市葵区井宮町
法 名 ・瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼
没 年 ・天正18年=1590年
年 齢 ・48歳
備 考 ・旭姫は天文12年に竹阿弥となか(後の大政所)との娘として生まれました。豊臣秀吉の異父妹とされ、当初は身分相応の佐治日向守に嫁ぎました。秀吉が出世すると織田家の家臣である副田甚兵衛吉成に再婚させられたようです。

天正14年には徳川家康との講和の為に吉成とは強制的に離婚、家康の正室として徳川家に嫁いでいます。その後、駿河府中に屋敷を与えられ駿河御前と呼ばれ、天正18年に聚楽第で病死しています。


・墓石の形状・種類:石造多層塔 ・瑞龍寺の画像と案内図
旭姫
【 人物名:西郷局昌子 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:宝台院 】
埋葬者 ・西郷局昌子(お愛の方)
名 称 ・宝台院・宝台院の画像と案内図
所在地 ・静岡県静岡市葵区常磐町二丁目
法 名 ・宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼
没 年 ・天正17年=1589年
年 齢 ・38歳
備 考
歴 史
略 歴
・西郷局は天文21年に戸塚忠春と西郷正勝の娘との間に生まれ於愛と名付けられました。忠春が討死すると母親は服部正尚と再婚、於愛は従兄の西郷義勝と結婚しましたが、義勝は竹広合戦で討死しています。その後、徳川家康に見初められ、徳川秀忠と松平忠吉を出産しています。
西郷局昌子(お愛の方):墓碑(お墓)
【 人物名:葛山家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:仙年寺 】
埋葬者 ・葛山家
名 称 ・仙年寺
所在地 ・静岡県裾野市葛山
備 考
歴 史
略 歴
・葛山家は駿河国駿東郡葛山を本貫とする国人領主で、藤原伊周の後裔の駿河大森氏の庶流とされます。鎌倉時代には幕府の御家人となり末期には執権北条家と近い存在になったものの、討幕後は足利家に近寄り室町幕府の奉公衆に加えられています。戦国時代になると北条早雲に娘を嫁がせる一方で、駿河国守護今川家に従う立場で、さらに甲斐武田領に接するという難しい舵取りをする事になります。最終的には武田家に従属し武田信玄の六男を婿養子として迎え名跡を継がせましたが武田家の滅亡と運命を共にしています。
葛山家:墓碑(お墓)
【 人物名:宗祗 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:定輪寺 】
埋葬者 ・宗祗
名 称 ・定輪寺
所在地 ・静岡県裾野市桃園
没 年 ・文亀2年=1502年
年 齢 ・81歳
備 考
歴 史
略 歴
・宗祇は室町時代を代表する連歌師で、文明5年に京都に種玉庵を設けると公家や諸大名、国人領主などと交流を持ちました。長享2年に北野連歌所宗匠となりさらに名声が高まっています。文亀2年に弟子達と共に越後から美濃に向かう途中、箱根湯本の宿で死去し定輪寺に葬られています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
宗祗:墓碑(お墓)

【 人物名:源頼家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:指月殿 】
埋葬者 ・源頼家
名 称 ・指月殿
所在地 ・静岡県伊豆市修善寺
法 名 ・法華院殿金吾大禅閤
没 年 ・元久元年=1204年
年 齢 ・23歳
備 考
歴 史
略 歴
・源頼家は寿永元年に源頼朝と北条政子との長男として生まれました。建久10年に頼朝が死去すると鎌倉幕府2代将軍に就任したものの、まだ武家政権の基盤が盤石では無く頼家自身も18歳という若年だった事から、北条家の台頭を許し、結果的に修善寺に軟禁の上暗殺されています。
源頼家:墓碑(お墓)
【 人物名:十三士 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:指月殿 】
埋葬者 ・十三士の墓
名 称 ・指月殿
所在地 ・静岡県伊豆市修善寺
法 名
備 考 ・源頼家が北条家を中心とする反源氏本流派から放たれた刺客により暗殺されると、残された家臣達が反乱を起こそうと画策しました。しかし、決起前に計画が露呈し相州金窪太郎行親の軍に鎮圧されました。指月殿の隣地に建立されている13基の宝篋印塔は討たれた家臣達のものと伝えられています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
指月殿の画像と案内図
十三士の墓:墓碑(お墓)
【 人物名:河津三郎祐泰 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:東林寺 】
埋葬者 ・河津三郎祐泰
名 称 ・東林寺
所在地 ・静岡県伊東市馬場町2丁目
没 年 ・安元年2年=1176年
年 齢 ・31歳
備 考
歴 史
略 歴
・河津祐泰は伊東祐親の長男として生まれ、河津荘を本貫とした為「河津」姓を掲げました。祐親が工藤祐経の領地である伊東荘に侵攻し、祐経に嫁がせていた娘 万劫御前を離縁させた事から恨みを買いました。祐経が刺客を放し、祐親を暗殺しようとした際、祐泰はこれを庇い変わりに刺殺されています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
河津三郎祐泰:墓碑(お墓)
【 人物名:伊東祐親 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:伊東祐親の墓 】
埋葬者 ・伊東祐親
名 称 ・伊東祐親の墓
所在地 ・静岡県伊東市大原1丁目
法 名 ・法名東林院殿寂心入道
没 年 ・養和2年=1182年
備 考
歴 史
略 歴
・伊東祐親は工藤祐隆の孫に当たる人物で、工藤祐経の領地である伊東荘に侵攻した事で恨みを買い嫡男河津祐泰が暗殺されました。平清盛に従い、伊豆に流された源頼朝の監視役を担いましたが、頼朝からは逃げられ挙兵後に捕縛されました。助命嘆願により許されたものの潔くないとして自刃しています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
伊東祐親:墓碑(お墓)

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