長野県の歴史上の人物の御墓

  全国の歴史上の人物の御墓(ホーム)>長野県の歴史上の人物の御墓
【 人物名:石川数正 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:宗林寺 】
埋葬者 ・石川数正
名 称 ・宗林寺
所在地 ・長野県安曇野市明科光
法 名 ・寂音院殿靜誉了禅大居士位
没 年 ・文禄2年=1593年
年 齢 ・61歳
備 考
歴 史
略 歴
石川数正は天文2年に石川康正と松平重吉娘との子供として生まれました。幼少期から壮年期まで徳川家康の側近として主要な合戦に従軍に戦功を挙げて岡崎城代に抜擢されています。ところが、天正13年に突如として出奔し豊臣秀吉の家臣となり、天正10年には松本城10万石に加増されています。宗林寺の画像と案内図
石川数正(宗林寺):墓碑(お墓)
【 人物名:松平家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:忠恩寺 】
埋葬者 ・松平家
名 称 ・忠恩寺
所在地 ・長野県飯山市大字飯山奈良沢
法 名
備 考 ・智光院:寛文8年=1668年
・宝池院:寛文2年=1662年
・法雲院:延宝2年=1674年・忠倶の養女
・開化院:寛文6年=1666年
・法春院(松山家)
・覚寿院(松山家)
・深津家3基
・墓石の形状・種類:五輪塔
忠恩寺の画像と案内図
松平家:墓碑(お墓)
【 人物名:本多家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:忠恩寺 】
埋葬者 ・本多家
名 称 ・忠恩寺
所在地 ・長野県飯山市大字飯山奈良沢
法 名 ・2代康明:霊光院十誉一法道山
・8代助成:文明院有誉章山達道
・9代助寵:成就院励誉功道徳山
没 年 ・2代康明:享保15年=1730年
・8代助成:慶応4年=1868年
・9代助寵:明治2年=1869年
年 齢 ・2代康明:22歳
・8代助成:23歳
・9代助寵:14歳
備 考 ・他に演授院、乾樹院、兼五郎の墓碑があります。
本多家:墓碑(お墓)
【 人物名:野田喜左衛門正満 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:本光寺 】
埋葬者 ・野田喜左衛門正満
名 称 ・本光寺
所在地 ・長野県飯山市大字飯山神明町
没 年 ・元禄8年=1696年
年 齢 ・65歳
備 考
歴 史
略 歴
・野田喜左衛門は寛永8年に現在の兵庫県姫路市に生まれました。測量技術に長け、それが飯山藩主松平忠倶の目に留まり藩士として迎え入れました。飯山藩では川除普請奉行に抜擢され30年間に12本の用水路を完成、多くの新田の開発や既存水田の整備に尽力しています。
・墓石の形状・種類:大名墓
野田喜左衛門正満:墓碑(お墓)
【 人物名:木曽家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:興禅寺 】
埋葬者 木曽義仲木曽義康・木曽信道
名 称 ・興禅寺
所在地 ・長野県木曽町福島向城
法 名 ・義仲:徳音院義山宣公
没 年 ・義仲:寿永3年=1184年
・義康:天正7年=1579年
・信道:永享11年=1439年
年 齢 ・義仲:31歳
・義康:65歳
・信道:50歳
備 考 興禅寺は木曽信道が永享6年に先祖の追善供養する為に創建された寺院で、木曽家や山村家の墓碑が建立されています。興禅寺の画像と案内図
木曽義仲・木曽義康・木曽信道:墓碑(お墓)

【 人物名:木曽家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:興禅寺 】
埋葬者 ・木曽家
名 称 ・興禅寺
所在地 ・長野県木曽町福島向城
法 名
備 考 ・一般的には木曽義仲の五男基宗が密かに縁戚関係にあった沼田家国に囲われその後裔とされます。ただし、確証は無く基宗は義仲の側室の弟で沼田家国の子供と考える方が理にかなっているそうです。その後、基宗が木曽谷に進出し「木曽」姓を掲げたとされます。興禅寺には歴代供養塔と思われる11基の木曽家墓が建立されています。
・墓石の形状・種類:和型墓石(板碑型)
木曽家:墓碑(お墓)
【 人物名:山村家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:興禅寺 】
埋葬者 ・山村家
名 称 ・興禅寺
所在地 ・長野県木曽町福島向城
法 名
備 考 ・山村家は大江氏の末流とされ、祖である大江良道が近江国山村を本貫とした事から地名に因み「山村」姓を掲げたとされます。木曽谷に遷ると木曽氏に従い、縁戚関係を重ねる事で重臣に取り立てられています。木曽氏が没落すると徳川家に従い、幕府から木曽福島関所守衛の交代寄合旗本、尾張藩から木曽谷の代官に任命されています。
・墓石の形状・種類:大名墓
山村家:墓碑(お墓)
【 人物名:真理姫 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大通寺 】
埋葬者 ・真理姫
名 称 ・大通寺
所在地 ・長野県木曽郡木曽町福島
法 名 ・眞龍院殿仁栄宗眞大姉
没 年 ・正保4年=1647年
年 齢 ・98歳
備 考
歴 史
略 歴
真理姫は天文19年に武田信玄の三女として生まれました。弘治元年に武田信玄の木曽侵攻により木曾義康が降伏すると、義康の嫡男である義昌との縁組が成立しています。天正10年に義昌が武田家を離反し織田家に転じた為、離縁し木曾山中に隠遁し三男義一と静かに暮らしたとされます。
真理姫:墓碑(お墓)
【 人物名:真田信之 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:長国寺 】
埋葬者 ・真田信之
名 称 長国寺
所在地 ・長野県長野市松代町松代
法 名 ・大鋒院殿徹巌一当大居士
没 年 ・万治元年=1658年
年 齢 ・93歳
備 考
歴 史
略 歴
真田信之は永禄9年に真田昌幸と山手殿との長男として生まれました。徳川家康の養女で本多忠勝の娘である小松姫を正室として迎えた事で、徳川家の家臣となり関ヶ原の戦いでも東軍に与し昌幸領を拝領しています。元和8年に松代藩13万石で加増移封となり松代城の修築や領内整備に尽力しています。長国寺の画像と案内図
真田信之(長国寺):墓碑(お墓)
【 人物名:真田信重 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:西楽寺 】
埋葬者 ・真田信重
名 称 ・西楽寺
所在地 ・長野県長野市松代町西条
没 年 ・慶安元年=1648年
年 齢 ・48歳
備 考 ・真田信重は慶長4年に真田信之と小松姫の子供として生まれました(生母については諸説有)。元和8年に松代藩から7千石が分知され、さらに寛永16年に1万石の埴科藩の藩主に就任した事で合計1万7千石の諸侯に列しました。墓碑は武蔵鴻巣の勝願寺、西楽寺には霊廟が造営されています。
西楽寺の画像と案内図
真田信重:墓碑(お墓)

【 人物名:真田信之 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大鋒寺 】
埋葬者 ・真田信之
名 称 ・大鋒寺
所在地 ・長野県長野市松代町柴
法 名 ・大鋒院殿徹巌一当大居士
没 年 ・万治元年=1658年
年 齢 ・93歳
備 考
歴 史
略 歴
・真田信之は明暦2年に家督を真田信政に譲ると当地を隠居所として移り住みました。しかし、万治元年に信政が死去した事から跡を継いだ幸道の後見人となっています。同年に死去すると荼毘に付され、その灰塚には信之の宝篋印塔と殉死した鈴木右近忠重の墓碑が建立されています。
大鋒寺の画像と案内図
真田信之(大鋒寺):墓碑(お墓)
【 人物名:福島正則 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:岩松院 】
埋葬者 ・福島正則
名 称 岩松院
所在地 ・長野県上高井郡小布施町雁田
法 名 ・海福寺殿月翁正印大居士
没 年 ・寛永元年=1624年
年 齢 ・64歳
備 考
歴 史
略 歴
・福島正則は豊臣秀吉の縁戚にあたり、幼少の頃から寵愛を受けたのにも拘わらず関ヶ原の戦いでは豊臣家を見限り徳川家に与しました。結果的に広島藩50万石の大大名となりましたが、幕府からは危険視され、些細な事に難癖をつけられ高井野藩4万5千石に減封されました。
岩松院の画像と案内図
福島正則:墓碑(お墓)
【 人物名:仙石秀久 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:西念寺 】
埋葬者 ・仙石秀久
名 称 ・西念寺
所在地 ・長野県佐久市岩村田本町
法 名 ・円覚院殿宝誉道樹大禅定門
没 年 ・慶長19年=1614年
年 齢 ・63歳
備 考
歴 史
略 歴
仙石秀久は天文21年に仙石治兵衛久盛の四男として生まれました。当初は斎藤龍興に仕えていましたが、斎藤家が没落すると織田家に仕え、信長の命により秀吉の配下に組み入れられています。九州征伐の不手際から改易になりましたが、小田原の役に戦功を挙げ小諸城の城主に復権しています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
仙石秀久:墓碑(お墓)
【 人物名:内藤正国 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:西念寺 】
埋葬者 ・内藤正国
名 称 ・西念寺
所在地 ・長野県佐久市岩村田本町
没 年 ・享和2年=1802年
年 齢 ・30歳
備 考 ・内藤正国は安永2年に水野忠鼎の四男として生まれました。岩村田藩の第4代藩主内藤正興の娘を正室とする事で正興の婿養子となり、寛正4年に正興が死去した事で内藤家の家督を継ぎ、岩村田藩第5代藩主に就任しています。内藤家の菩提寺である西念寺には唯一正国の墓碑だけが建立されています。・墓石の形状:五輪塔
西念寺の画像と案内図
内藤正国:墓碑(お墓)
【 人物名:武田信玄 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:龍雲寺 】
埋葬者 ・武田信玄
名 称 ・龍雲寺
所在地 ・長野県佐久市岩村田住吉町
法 名 ・法性院機山徳栄軒信玄
没 年 ・元亀4年=1573年
年 齢 ・51歳
備 考
歴 史
略 歴
・武田信玄は元亀4年、三河国侵攻中に体調を崩した事から急遽転進し帰国の途上に病死したとされます。龍雲寺に伝わる伝承によると信玄が帰依し当寺の住職だった北高禅師が信玄の遺骨と短刀、袈裟環を持ち帰り境内に埋葬したと伝えられています。昭和に入り境内を整備すると伝承の品々が発見されています。龍雲寺の画像と案内図
武田信玄:墓碑(お墓)

【 人物名:諏訪家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:温泉寺 】
埋葬者 ・諏訪家
名 称 ・温泉寺
所在地 ・長野県諏訪市湯の脇1丁目
備 考 ・諏訪家は古代からの氏族で代々諏訪大社上社の大祝を務めてきた家柄です。中世に入ると神職を担う一方で領主としての側面もあり国人領化した後は周辺地域にまで版図を広げています。武田信玄の諏訪侵攻により没落したものの、徳川家に従い高島藩主として復権しています。菩提寺である温泉寺の境内には歴代諏訪家の墓域が整備され国指定史跡に指定されています。
・墓石の形状・種類:自然石
温泉寺の画像と案内図
諏訪家:墓碑(お墓)
【 人物名:和泉式部 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:温泉寺 】
埋葬者 ・和泉式部
名 称 ・温泉寺
所在地 ・長野県諏訪市湯の脇1丁目
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・和泉式部は平安時代中期に越前守の大江雅致の娘として生まれたとされます。才色兼備の女性だったようで「和泉式部集」や「和泉式部日記」などを執筆する一方で、結婚、再婚、恋愛など事欠かなかったようです。晩年は信頼出来る資料が無く不詳で、温泉寺に何故墓があるのかは判りません。
・墓石の形状・種類:五輪塔
和泉式部:墓碑(お墓)
【 人物名:吉良義周 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:法華寺 】
埋葬者 ・吉良義周
名 称 ・法華寺
所在地 ・長野県諏訪市中洲
法 名 ・宝燈院殿岱嶽徹宗大居士
没 年 ・宝永3年=1706年
年 齢 ・21歳・法華寺の画像と案内図
備 考
歴 史
略 歴
・吉良義周は貞享3年に米沢藩4代藩主上杉綱憲とお要の方との子供として生まれました。綱憲の実家である吉良家の嫡男三郎が死去すると養子として入ります。元禄9年に吉良義央が浅野長矩に殿中で切られると吉良家の家督を継いでいます。しかし、元禄15年に赤穂浪士から義央が討たれると不手際から改易となっています。
吉良義周:墓碑(お墓)
【 人物名:和泉式部 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:来迎寺 】
埋葬者 ・和泉式部
名 称 ・来迎寺
所在地 ・長野県諏訪郡下諏訪町字湯田本町
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・来迎寺に伝わる伝承によると和泉式部は当寺から程近い温泉宿で奉公人として働いていた「かね」で、日頃から信仰していた地蔵菩薩が虐めで出来た傷を身代わりとなった事から、その話を聞いた大江雅致が養女として迎え入れ後に和泉式部に呼ばれるようになったと伝えられています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
和泉式部:墓碑(お墓)
【 人物名:日根野高吉 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:慈雲寺 】
埋葬者 ・日根野高吉
名 称 慈雲寺
所在地 ・長野県諏訪郡下諏訪町東町
法 名 ・鑑照院殿鉄叟玄心大居士
没 年 ・慶長5年=1600年
年 齢 ・62歳
備 考
歴 史
略 歴
・日根野高吉は天文8年に日根野弘就の子供として生まれました。父親と共に美濃斎藤氏に仕えていましたが、斎藤氏が没落すると今川家、今川家が没落すると浅井家を経て織田家に仕えました。その後、織田信孝を経て、豊臣秀吉に仕え小田原の役で戦功を挙げ高島城3万8千石を与えられています。慈雲寺の画像と案内図
日根野高吉:墓碑(お墓)

【 人物名:小松姫 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:芳泉寺 】
埋葬者 ・小松姫
名 称 芳泉寺
所在地 ・長野県上田市常磐城
法 名 ・大蓮院殿英誉皓月大禅定尼
没 年 ・元和6年=1620年
年 齢 ・48歳
備 考
歴 史
略 歴
・本多忠勝の長女
・徳川家康の養女
・真田信幸の正室
・草津温泉に向かう途中に病死
芳泉寺
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
小松姫:墓碑(お墓)
【 人物名:仙石久秀 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:芳泉寺 】
埋葬者 ・仙石久秀
名 称 ・芳泉寺
所在地 ・長野県上田市常磐城
法 名 ・円覚院殿宝誉道樹大禅定門
没 年 ・慶長19年=1614年
年 齢 ・63歳
備 考
歴 史
略 歴
・仙石久秀は豊臣家に大恩がありながら秀吉が死去すると徳川家に転じ、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは徳川秀忠隊に従軍し上田城攻めにも参加しています。戦後は小諸藩を立藩し初代藩主に就任し、引き続き小諸城の整備拡張や領内開発に尽力しています。
仙石久秀:墓碑(お墓)
【 人物名:仙石政俊 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:芳泉寺 】
埋葬者 ・仙石政俊
名 称 ・芳泉寺
所在地 ・長野県上田市常磐城
法 名 ・翁院殿謙誉道休大居士
没 年 ・延宝2年=1674年
年 齢 ・58歳
備 考
歴 史
略 歴
・仙石政俊は元和3年に仙石忠政と小堀政徳の娘との子供として生まれました。寛永5年に忠政の死去に伴い仙石家の家督を継ぎ上田藩2代藩主に就任しています。領内全域で検地を実施するなど領内整備に尽力し、幕政では常陸下館城在番や大坂城加番を担っています。
仙石政俊:墓碑(お墓)
【 人物名:内藤家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:満光寺 】
埋葬者 ・内藤家
名 称 ・満光寺・満光寺の画像と案内図
所在地 ・長野県伊那市高遠町西高遠
備 考 ・藩祖となった内藤清成は19歳で家督を継いで以降、徳川家に従い関ヶ原の戦いでの戦功により2万1千石で諸侯に列し関東総奉行を担いました。晩年は家康の怒りを買い蟄居しましたが、跡を継いだ内藤清次は奏者番や老職(老中)などの要職を歴任し5千石が加増されています。清政の代でさらに4千石が加増されたものの跡継ぎが無く一時改易、その後、甥である重頼が諸侯に復帰し跡を継いだ清枚が3万3千石で高遠藩に移封となり、以後、内藤家が藩主を歴任し明治維新を迎えています。
内藤家:墓碑(お墓)
【 人物名:保科正直・保科正光・諏訪御料人 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:建福寺 】
埋葬者 ・保科正直・保科正光・諏訪御料人
名 称 ・建福寺
所在地 ・長野県伊那市高遠町西高遠
法 名 ・正直:天関透公建福寺
・正光:信厳道義大宝寺
・諏訪御料人:乾福寺殿梅巌妙香大禅定尼
没 年 ・正直:慶長6年=1601年
・正光:寛永8年=1631年
・諏訪御料人:弘治元年=1555年
年 齢 ・正直:60歳
・正光:71歳
・諏訪御料人:25歳
備 考 建福寺の画像と案内図
保科正直・保科正光・諏訪御料人:墓碑(お墓)

【 人物名:絵島 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:蓮華寺 】
埋葬者 ・絵島
名 称 ・蓮華寺
所在地 ・長野県伊那市高遠町長藤
法 名 ・信敬院妙立日如大姉
没 年 ・寛保元年=1741年
年 齢 ・60歳
備 考
歴 史
略 歴
・絵島は天和元年に疋田彦四郎の娘として生まれました。甲府徳川家に仕えた事から徳川家宣が6代将軍に就任すると江島も江戸城に登り大奥入りを果たし、家宣の側室であるお喜世の方に仕え信任を得ています。その後、所謂「絵島生島事件」により高遠藩に流され、関係者は厳しく処分されました。・墓石の形状:板碑型
絵島:墓碑(お墓)
【 人物名:絵島 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:遠照寺 】
埋葬者 ・絵島(分骨)
名 称 ・遠照寺
所在地 ・長野県伊那市高遠町山室
法 名 ・信敬院妙立日如大姉
没 年 ・寛保元年=1741年
年 齢 ・60歳
備 考
歴 史
略 歴
・絵島は「絵島生島事件」により高遠藩に流されると28年間幽閉されましたが、遠照寺の住職だった見理院日燿上人は絵島に対して法華経の説法した事から、高遠藩の特別な許可を得て遠照寺に参拝する事だけは許されました。 絵島は遠照寺で説法を聞いたり碁を興じたりしたそうです。
絵島(分骨):墓碑(お墓)
【 人物名:石川数正 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:兎川寺 】
埋葬者 ・石川数正
名 称 ・兎川寺
所在地 ・長野県松本市里山辺
法 名 ・寂音院殿靜誉了禅大居士位
没 年 ・文禄2年=1593年
年 齢 ・61歳
備 考
歴 史
略 歴
・石川数正は天文2年に石川康正と松平重吉娘との子供として生まれました。幼少期から壮年期まで徳川家康の側近として主要な合戦に従軍に戦功を挙げて岡崎城代に抜擢されています。ところが、天正13年に突如として出奔し豊臣秀吉の家臣となり、天正10年には松本城10万石に加増されています。兎川寺の画像と案内図
石川数正:墓碑(お墓)
【 人物名:伴野庄の荘司 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:慈恩院 】
埋葬者 ・伴野庄の荘司
名 称 ・慈恩院
所在地 ・長野県下伊那郡豊丘村神稲
法 名
没 年
備 考
歴 史
略 歴
・慈恩院の境内がある豊丘村伴野は平安時代の末期に鳥羽天皇の皇女上西門院統子内親王の御領となった事から伴野庄と呼ばれるようになりました。伴野庄の荘司として赴任したものが位牌寺として慈恩院を創建した事から、宝篋印塔は伴野庄の荘司のものと推定されてます。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔
伴野庄の荘司:墓碑(お墓)
【 人物名:知久則直 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:安養寺 】
埋葬者 ・知久則直
名 称 ・安養寺・安養寺の画像と案内図
所在地 ・長野県下伊那郡喬木村
法 名 ・宗清
没 年 ・寛永21年=1644年
年 齢 ・67歳
備 考
歴 史
略 歴
・知久則直は天正6年に知久頼氏と遠江国入野の木寺宮の娘との子供として生まれました。天正13年に徳川家康の怒りに触れ頼氏が切腹させられると領地は召し上げられ則直は菅沼定利に預けられています。天正19年に家康の小姓として御家の再興がなされ、慶長6年に旧領の内3千石が安堵され交代寄合旗本となっています。
知久則直:墓碑(お墓)

【 人物名:知久家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:安養寺 】
埋葬者 ・知久家
名 称 ・安養寺
所在地 ・長野県下伊那郡喬木村
備 考
歴 史
略 歴
・出生は諸説有って判然としませんが、承久の乱の戦功で伴野荘の地頭に就任、知久平城を築き本拠地を遷したとされます。室町時代は信濃守護小笠原氏に従ったものの、戦国時代には国人領主化して領土拡大を図っています。武田信玄の信濃侵攻に抵抗した事から本拠地を失い、知久頼元は捕縛された後に処刑となっています。一族の中の知久頼氏は徳川家に従ったものの怒りを買い切腹、嫡男知久則直は菅沼定利に預けられた後に交代寄合旗本として復権しています。以来、知久家阿島陣屋を拠点として明治維新を迎えています。
知久家:墓碑(お墓)
【 人物名:霊犬早太郎 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:光前寺 】
埋葬者 ・霊犬早太郎
名 称 ・光前寺
所在地 ・長野県駒ヶ根市赤穂
法 名
備 考 ・伝承によると光前寺に早太郎と呼ばれる霊犬が飼われていました。その噂を聞いた旅僧が遠州府中見付天神社に巣食う老狒狒を退治して欲しいと懇願し光前寺から許しを貰いました。早太郎は生け贄として捧げる娘の振りをして老狒狒に近づくき激しい戦闘の末、何とか討ち果たす事が出来ました。しかし、体中大怪我を負い、光前寺に辿り着くと息を引き取ったと伝えられています。
・墓石の形状・種類:五輪塔
霊犬早太郎:墓碑(お墓)
【 人物名:滋野家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:津金寺 】
埋葬者 ・滋野家
名 称 ・津金寺
所在地 ・長野県北佐久郡立科町山部
備 考 ・滋野家は貞保親王が信濃国海野庄に配され、延喜5年に善淵王の代に醍醐天皇から滋野の姓を賜ったとされます。その後、望月牧の牧官に任命され、鎌倉時代には弓の名手を何代も輩出、重道の代から「海野」姓を掲げています。津金寺の境内には滋野家一族が建立した逆修供養塔が2基、納経塔1基が残されており長野県の県宝に指定されています。
・墓石の形状・種類:石宝塔
津金寺の画像と案内図
滋野家:墓碑(お墓)
【 人物名:真田幸隆・恭雲院・真田昌幸 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:長谷寺 】
埋葬者 ・真田幸隆・恭雲院・真田昌幸
名 称 ・長谷寺・長谷寺の画像と案内図
所在地 ・長野県上田市真田町長
法 名 ・幸隆:笑倣院殿月峯良心大庵主
・恭雲院:恭雲院喜山理慶大姉
・昌幸:長谷寺院殿一翁千雪大居士
没 年 ・幸隆:天正2年=1574年
・恭雲院:天正20年又は文禄2年=1593年
・昌幸:慶長16年=1611年
年 齢 ・幸隆:62歳
・昌幸:65歳
備 考 長谷寺は真田家の菩提寺として真田幸隆が晃運和尚を招いて中興開山した寺院です。
真田幸隆・恭雲院・真田昌幸:墓碑(お墓)
【 人物名:寒松院 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:大輪寺 】
埋葬者 ・寒松院
名 称 ・大輪寺
所在地 ・長野県上田市中央北1丁目
法 名 ・寒松院殿宝月妙鑑大姉
没 年 ・慶長18年=1613年
備 考 ・寒松院の出生は諸説有不詳。永禄7年頃に真田昌幸の正室として真田家に嫁ぎ、少なくとも村松殿、真田信之、真田信繁(幸村)の子供を得ています。武田家の家臣時代には新府城に人質として入り、関ヶ原の戦い直前には大坂城に入っています。戦後は上田城に帰還し慶長6年頃から大輪寺に入っています。
大輪寺の画像と案内図
寒松院:墓碑(お墓)
【 人物名:小笠原家 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:浅間温泉 】
埋葬者 小笠原貞慶小笠原秀政・小笠原忠脩
名 称 ・御殿山小笠原家廟所
所在地 ・長野県松本市浅間温泉
法 名 ・貞慶:大隆寺殿
・秀政:両選院殿義捜宗玄大居士
・忠脩:法性寺殿正甫宗中大居士
没 年 ・貞慶:文禄4年=1595年
・秀政:慶長20年=1615年
・忠脩:慶長20年=1615年
年 齢 ・貞慶:50歳
・秀政:47歳
・忠脩:22歳
備 考 ・御殿山小笠原家廟所は水野忠直によって整備。
小笠原貞慶・小笠原秀政・小笠原忠脩:墓碑(お墓)

【 人物名:余吾将軍平維茂 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:別所温泉 】
埋葬者 ・余吾将軍平維茂
名 称 ・将軍塚
所在地 ・長野県上田市別所温泉
備 考 ・平維茂は平安時代中期の武将で平繁盛の子供として生まれたとされます。15番目の子供で将軍になった事から余五将軍とも呼ばれました。当地に伝わる伝承によると鬼女紅葉征伐に派遣された平維茂は見事討ち果たしたものの体に17か所に及ぶ大きな傷を負い、この地で果てたと伝えられています。別所温泉には平維茂の墳墓と伝わる将軍塚や、維茂が大改修にした北向観音などが残されています。
・墓石の形状・種類:石造多層塔
余吾将軍平維茂:墓碑(お墓)
【 人物名:武田信玄 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:長岳寺 】
埋葬者 ・武田信玄
名 称 ・長岳寺
所在地 ・長野県下伊那郡阿智村駒場
法 名 ・法性院機山徳栄軒信玄
没 年 ・元亀4年=1573年
年 齢 ・51歳
備 考 ・元亀4年、武田信玄は三河攻めを行っていた途中に発病したとみられ、何とか野田城を落としたものの、一旦長篠城に移り養生に専念します。しかし、回復する兆しが無かった事から三州街道を北上し甲斐国への帰国途中に亡くなったとされます。松平忠明が筆した「当代記」や御宿監物書状には駒場で死去した事が記され、龍雲寺から発見された信玄の骨壺に入っていた袈裟の環には信玄が駒場で卒した銘が刻まれていました。さらに、長岳寺の裏山には信玄が荼毘に付された火葬塚があり、長岳寺に伝わる伝承によると信玄の遺骸は、馬場信春、原備前、高坂弾正、下條伊豆守など重臣によって密かに運び込まれ、義兄弟で住職だった裕教法印が火葬したと伝えられています。
武田信玄
【 人物名:馬場美濃守信房 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:長岳寺 】
埋葬者 ・馬場美濃守信房
名 称 ・長岳寺
所在地 ・長野県下伊那郡阿智村駒場
法 名 ・龍嶽院殿大法寿山居士
没 年 ・天正3年=1575年
年 齢 ・61歳
備 考
歴 史
略 歴
・馬場信房は永正11年又は永正12年に教来石信保の子供として生まれました。天文15年に馬場家の名跡を継ぎ「馬場」姓を掲げ、武田信玄の主要な合戦に従軍して戦功を挙げた事から武田四天王に数えられました。長篠の戦で殿を勤め討死したとされます。・墓石の形状:五輪塔
馬場美濃守信房:墓碑(お墓)
【 人物名:武田信玄 】・【 埋葬地(お墓)・歴史・由緒:信玄塚 】
埋葬者 ・武田信玄
名 称 ・信玄塚
所在地 ・下伊那郡根羽村横旗
法 名 ・法性院機山徳栄軒信玄
没 年 ・元亀4年=1573年
年 齢 ・51歳
備 考 ・武田信玄の死没地は諸説ありますが、根羽村も有力地の一つです。「甲陽軍艦」や「熊谷家伝記」には根羽の地名が見られ、信玄百回忌には追善供養の為に花崗岩製の宝篋印塔が建立され信玄塚が築かれています(実際の埋葬地は他地にあったものの、国道を開削した際に消滅したとされます)。 地名の「横旗」は風林火山の旗を横にした、「根羽」は信玄が死の床に就いた事に起因するとも云われています。
・墓石の形状・種類:宝篋印塔

武田信玄

全国の歴史上の人物の御墓のリンク
青森県岩手県秋田県山形県宮城県福島県栃木県茨城県群馬県新潟県長野県山梨県富山県石川県福井県
岐阜県静岡県愛知県三重県滋賀県京都府兵庫県鳥取県島根県岡山県
全国の歴史上の人物(著名人・有名人・偉人・名家)の御墓:内部リンク
著名人(歴史人物・有名人・偉人・名家)の菩提寺や霊廟
※全国の歴史上の人物の御墓のリンクは自由ですが、文章や画像のコピーは禁止しています。何かありましたらメールしてください。
プライバシーポリシーはこちらです。
inserted by FC2 system